たけくまメモMANIAX

« | トップページ | »

2007年11月6日

【blog考】2-1「竹熊新聞」のこと(1)

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Facebook

●マスコミとミニコミ

そろそろ「blog考」を再開する。ここからしばらくは第二部として、「私の個人メディア史」を綴っていきたい。子供時代の記述から始まるので、当然ブログや、パソコン&インターネットがこの世に存在しない時代の話から書くことになる。小学生時の個人新聞作りから始まって、高校時代のオフセット印刷によるミニコミ作り、「プロ」の物書きになってからのこと、パソコン通信とインターネットとの出会い、そして44歳でブログを始めるに至るまでの経緯を、やや駆け足で辿る予定だ。

単行本にする際、ここの記述の扱いをどうするかは決めていないが、なんらかの形で重要な章として残したいと思っている。「たけくまメモ」は、四〇代になった私が新しく手に入れた「メディア」である。ブログは、個人による表現伝達手法としては、現時点(2000年代初頭)における最高のメディアであろう。表現を「千単位・万単位の読者」に届ける手段として、せいぜい一ヶ月数千円程度の、出版社を経営することに比べればほとんどゼロに近いコストで実現することができるからだ。これは私にとって、およそ40年間も待ち望んだ状況だったと言っていい。

かつては万より上の規模の人々に流通させることを想定したメディアがマスコミ、それ以下の、多くは数十から数百部規模のメディアはミニコミと呼ばれていた。マスコミという言葉は現在も生きているが、ミニコミはあまり使われなくなった言葉のようである。その代わりコミックマーケットなどでは「同人誌」という言葉がさかんに使われている。同人誌はたぶんミニコミより古い、大昔からある言葉だが、ミニコミと同人誌では、メディアの規模としては似たようなものであったとしても、意味するところがだいぶ異なっている。

たとえば私が17歳から20歳まで発行していた雑誌「摩天樓(まてんろう)」は、創刊当時こそ友人たちと協力して作っていた「同人誌」だったが、最後はほぼ私一人が執筆・編集する個人誌になってしまった。したがって「摩天樓」に同人誌という表現はそぐわない。同人誌という言葉には、表現を読者に伝えること以上に、同じ本に作品を寄せ合うことで同人間の親睦を深める目的があるように私には感じられる。その点編集発行人だった私は、友人との親睦は二の次で、「自分が納得した表現を読者に届ける」ことにのみ関心があった。したがって参加してくれた友人には悪いことをしたと思うが、普通の同人誌ではあまりない「ボツ」も平気で行っていたのだ。「摩天樓」は部数こそ三百部程度だったが、少数ながらも不特定の読者を相手に発行していたつもりである。同人誌ではなく、あくまでミニコミなのだ。

いずれにせよ、私の頭の中では、昔のミニコミ作りと、ブログを執筆・更新していくことはダイレクトに繋がっている行為である。順序として私は、「前史」を外してブログを考えることができない。

小学校時代の新聞製作や「摩天樓」については、過去にも何度か書いたことがある。すでにお読みになっている人には申し訳ないが、極力新鮮な気持ちで読んで貰えるよう努力するつもりである。それに今日に至るトータルな「流れ」としてこのことを書くのは、おそらく今回が始めてになるはずだ。

●小学校二年で創刊した「新聞」

さて、私が最初にメディアを作ったのは、小学校二年生の頃である。「竹熊新聞」というタイトルで、自分や近所の話題を中心に、カーボン複写で5部程度の新聞を印刷し、ご近所の郵便ポストに配達していた。完全な子供のごっこ遊びではあったが、記事を書いて新聞を作るばかりでなく「複製」と「流通」をまがりなりにも行っているのがポイントである。

印刷を行わずに手書きのまま廊下の壁や掲示板に張り出す「壁新聞」は、原初的なメディアとして大昔からあるが、少部数とはいえ「印刷」したところに私の熱中ぶりが伺える。その後、私は活字やマンガなどの「印刷メディア」の世界で生活することになってしまったわけだが、その原点は間違いなく「竹熊新聞」であったといえる。カーボン紙を使えば複写できることを誰に教わったかは憶えていないが、おそらく母親だったろうと思う。母は戦後、総理府統計局や一般企業の事務員を私が生まれるまでやっていたので、カーボン紙は馴染みのある文具だったと思えるからだ。

私は母と一緒に文具店へ行き、B5サイズのカーボン紙数枚と、同じくB5のワラ半紙を一束購入した。このとき買ったワラ半紙は、新聞発行を中断してからも小学校の後半まで鉛筆でマンガを描くのに使った記憶があるので、数百枚はあったはずである。

ワラ半紙の上にカーボン紙を置き、その上にワラ半紙、カーボン、ワラ半紙と重ねて一番上からボールペンで強く書くと3部の新聞が作れる。さらに重ねて、4部か5部作ったはずである。私は今でも筆圧が強く、たまにペンや鉛筆で書くと疲れてしかたがないが、この筆圧の強さはこのときの経験がきっかけかもしれない。

新聞を作ろうと思い立ったきっかけは「少年マガジン」に連載されていた、ちばてつやの『ハリスの旋風』である。下町で屋台のラーメン屋を営んでいる家の子供である石田国松が、私立の名門・ハリス学園に転入し、得意の運動神経で、たちまちあらゆる運動部を「制覇」、上級生や番長たちを次々と打ち負かして人気者になるという物語だ。関谷ひさしの『ストップ!にいちゃん』とともにマンガにおける「学園もの」の原型となった作品であり、特に『ハリスの旋風』は二回もテレビアニメ化されて大ヒットした。ちばてつやの代表作の一本で、私はこの作品によって「番長」という言葉を知った。《つづく》


たけくまメモMANIAX

| コメント(0)

コメントは停止中です。

« | トップページ | »