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2009年11月11日

マンガと大学教育(1)「マンガ工学部」の可能性

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※以下収録する原稿は、雑誌「ちくま」2008年7月号「オタク文化の現在(17)マンガ工学部の可能性 竹熊健太郎)より転載したものである。採録に当たって、一部表記を改めた。文中に森川嘉一郎氏や伊藤剛氏の名が出てくるが、これはこの三者による持ち回り形式の連載だったからである。

●マンガ工学部の可能性

このリレー連載も「大学教育とマンガ」という現在のテーマに入って、俄然佳境に入った感がある。森川嘉一郎氏はアカデミシャンであり、伊藤氏と私はそれぞれフリーのマンガ系言論人という立場から大学教育に関係することになった人間であるので、これはそれぞれの考察を深めるいい機会だと思う。

まず私と大学との関係をざっと書いておこう。81年にフリーの編集者兼ライターとなった私は、主としてマンガ誌関係の仕事を約21年続けた後、編集・ライター業と平行して2003年から多摩美術大学で「漫画文化論」非常勤講師となった。04年から桑沢デザイン研究所で非常勤でマンガ史を教え、06年と07年には桑沢で森川・伊藤両氏とともに「キャラクターメディア研究ゼミ」講師を務めた。ゼミはまだ存続しているが、私だけ今年は抜けさせていただき、代わりに京都精華大学マンガ学部の客員教授として教壇に立つことになった。(註:2009年からは教授)

多摩美の講義は今年で六年目になるが、漫画文化論と銘打っているものの、実際はマンガ史とアニメ史を教える内容である。両方をひとつの講義でやる理由は、特に日本においてはマンガとアニメーションが強い相互影響のもとで発展してきた事実があるからだ。

一方、昨年と一昨年に桑沢で行ったゼミは、森川・伊藤氏と私がいわば「編集者」の立場となって、ゼミ生にマンガやアニメ・ゲームを創ってもらってCD付き雑誌を作り、コミケで販売までやるというものだった。これは三人ともに理論だけではなく実作教育に踏み込みたいという願望があり、ゼミ形式でそれを実現したものである(森川・伊藤氏のもとで現在も継続中)。

さて私から見たところ、現状のマンガ教育は「歴史・理論研究」と「実作教育」のふたつに分けられる。本誌五月号で森川氏が提唱した「マンガ・アニメ史教育」は前者に分類されよう。多摩美術大学で私がやっている講義も歴史教育であるし、伊藤氏が武蔵野美術大学等で行っている講義は、彼の専門であるマンガ表現論に基づく理論的講義が中心である。

ただし伊藤氏の場合、彼はもともと実作家であるので、専門学校などではストーリー構成・コマ運びなど実作についての講義も行っている(註:現在は東京工芸大学でも同様の講義を行っている)。マンガ科を設置している専門学校の場合は、はじめから実作家を輩出することが目的なので、理論より実技指導に大きなウェイトを置くことは当然である。マンガ家であった伊藤氏は、自身の経験を活かした実践的な授業が可能だが、個々の講師の努力はともかく全体として見た場合、実作教育と理論教育が噛み合っているとはまだ言えない。世間的には、先月号の伊藤氏の論考「学校でマンガは学べるのか?」に書かれた通りの認識を持っている人が多数であろう。あれは要するに、理論や技術をいくら学んだところで、それで面白いマンガが描けるとは限らないという「よくある疑問」に対して、伊藤氏が真摯に答えようとした文章である。

伊藤氏も書いたが、現場でマンガを創るということは細かい経験則の積み重ね以外のなにものでもない。マンガの描き方のような入門書は昔からあったが、より実践的で肝心なポイントについては、師匠から弟子へのマン・ツー・マンによる「秘技伝授」の色彩が今でも強いのだ。経験則を伝えるには、現状それしか方法がないといえる。そのため大学のような開かれた場所での教育にはそぐわないと考えられているのである。熱心なマンガ読者や、プロ業界人ほどそう考える傾向が強い。しかし従来「神秘」のベールに包まれていた創作のプロセス(経験則)を、誰にでも伝えうるように言語化を図ることが、夏目房之介氏や伊藤氏が試みているマンガ表現論であるはずである。これは実作を目的としたものではないが、間違いなく実作経験の中から立ち上がってきた理論である(夏目氏も伊藤氏もマンガ家である)。ゆえに、どこかで実作にも繋がりうる作業であるはずなのだ。

一方森川氏の論考は、実作から離れ、歴史学や、社会学・経済学的にマンガ・アニメの現状をとらえようとするものである。そもそも近年アカデミズムの中にマンガ・アニメ研究の機運が高まってきたのは、それが数少ない日本発の「輸出文化産業」として内外の注目が集まっているからである。次期総理候補と目されている麻生太郎(※註:原稿執筆当時)がマスコミでさかんにマンガ・アニメについて言及していることを見てもわかるように、これはすでに「国策」となっていると考えていい。

しかし、浮世絵が海外の評価によって初めて芸術と見なされた轍を踏んではならないと森川氏は言う。日本発の文化発信をするからには、まず日本人自身が自国の文化に対して正しい認識を得るところから始めなければならない。そこで森川氏は、マンガ史・アニメ史の歴史教育こそ、大学がまず手がけるべき作業だと主張する。森川氏の視点は「産業」としてマンガ・アニメをとらえるときに必然的に出てくる態度である。だが一般的には、教育を実作教育ととらえる向きが多く、すると当然「大学でマンガ家が育てられるのか」という伊藤氏が取り上げたような声が強いことは事実である。

京都精華大学や大阪芸術大学は、まさに「実作」のための講義を行い、高名なマンガ家や原作者、ベテラン編集者、アニメ監督などを教授・講師陣に迎えて専門の学部学科まで作っている。しかし内実は伊藤氏の言う創作神秘主義的な「秘技伝授」の域を出ていないのが現状ではないかと思う。

そこで、私は「マンガ工学部」のようなものができないかと思うのである。表現論を基盤に置きながらも、それを「実作」に繋げるために一方で出版・産業界と連携をとりながら、文字通り工学部的な発想でマンガの創作プロセスを分析・再構築できないかというものだ。それは、現在の紙媒体のマンガ出版だけではなく、電子メディアへの展開も視野に入れたものになるはずである。

現在の日本で普及しているマンガは、モノクロが主流で、いずれもザラ紙に活版で印刷することを前提に発展した技術である。私は昔からこれが疑問だった。なぜ、カラーでマンガを描いてはいけないのか? どうして紙にペンで描くことを奨励されるのか? これはもちろん、カラーで描いたり板にクレヨンでマンガを描いたら、印刷コストがべらぼうにかかってしまうからである。編集者としてマンガにかかわると、300円で400ページ程度の一般的なマンガ誌の場合、カラーページはせいぜい8ページしかとれないというようなことが、すぐにわかる。コスト計算を知らない読者や新人作家でも、マンガがモノクロだったり、ザラ紙に印刷されていることを疑問に感じたりはしない。昔からそれが当たり前だからである。「当たり前」の裏には、技術的・経済的な理由がちゃんとあるのだが、誰もそこまでは考えない。

これがフランスであれば、マンガ出版が依って立つ常識からして違う。フランスでは、マンガ(バンド・デシネ)はアートとして扱われるので、大判ハードカバーのカラー印刷が当たり前である。その代わり値段は高価だが、すでに文化として定着しているので、誰も価格を疑問に思わない。メビウスなど高名な作家の原画は編集者ではなく画商が扱い、美術館が買い上げる。(※註:近年のフランスでは日本マンガがブームであり、モノクロ原稿で物語を重視する日本式のマンガを描く作家が増えつつある。ここでの私の記述は、70年代から90年代にかけてのフランスの状況をベースにしている)

日本のマンガ原稿はどこまでも「版下」なので、そもそも原画を販売するという発想が作家の側にない。版下として手元に保管しておけば、雑誌に再録されたり、復刊されるたびに製版し直せば何度でも商売になるという考えである。

昔、現代美術家のM氏がマンガ家E氏の原画展をキュレーションしたことがあった。そのときM氏は素直に画家としての発想から、「購入希望のお客のためにEさんの原画に値段をつけたいのですが、いくらなら売りますか?」と尋ねたところ、「一枚一億円でもイヤだ」と返答が来て仰天したそうである。つまりこれは、原画は絶対に売りたくないということだ。

美大で教えていると、バンド・デシネのようなアート系のマンガを描きたがる学生が多いのだが、私は「残念だが、日本でこういう作品は出版できない。フランスでデビューするか、さもなければ日本の描き方に合わせるしかない」とアドバイスすることにしている。しかし、そう答える私自身、納得がいっていないのである。

ところが近年になって状況が変わってきた。まずインターネットの普及によって、マンガの「発表コスト」が激減した。紙に印刷するのではなく、最初からネットで発表してディスプレイで読ませるのであれば、モノクロで描く必要などなく、画材もペンやインクには制約されない。実際、ネット連載から単行本化されてベストセラーになった『きょうの猫村さん』(ほしよりこ)はモノクロ作品だが、全編が鉛筆線によるラフ描きで、しかも長いストーリーを持つ「一日一コマ」の連載であった。通常の雑誌編集の常識では、到底掲載できない形態で作品が描かれているのだ。

現在流行っていると評判の携帯コミックは、すでにあるマンガをデジタル化してコマごとに分離し、一コマづつ読まれるように配信されている。(註:普通のマンガのページを丸ごと取り込んだ形式もあるが、紙のマンガのようにページ全体を一括表示で見せることはできない) 

これなども、最初から携帯向けに特化した表現が求められることは当然で、すでに各社とも描きおろしコンテンツが描ける人材確保に躍起になっているが、ほとんどのマンガ家は「紙にコマを割って描くマンガ」の経験しかなく、需要にコンテンツの供給が追いつかないという現象も起きているようだ。出版社も、紙のマンガの二次使用という部分にうまみを感じているだけなので、わざわざ携帯向けに特化した作品を制作しようという意欲が薄い。

しかしデジタルマンガの世界では、アニメーションとの融合現象も起きている。ふかさくえみというマンガ家は、フラッシュを駆使したデジタルマンガを制作している。彼女の作品は一応コマを割ったマンガであるのだが、吹き出しが時間差で表示されたり、音楽が流れたり、コマによってはアニメとして動いたりもする。彼女のファンはネットに大勢いるが、今のマンガ研究は、こうしたジャンル越境的な表現にまでは、なかなか注意が向かっていない。

こうしたデジタル化の波の中で起きていることは、コマのような「マンガ文法の解体」そのものであるのだが、マンガ表現論の射程は、未だ「紙のマンガ」から出ていない。しかし現場でのデジタル化が、マンガ表現を根底から変えつつあることは事実なのだ。

私が考える「マンガ工学」は、こうした制作・発表課程でのデジタル化による産業構造の変化を踏まえて、ハードウェアの枠組みが現状のマンガ・アニメ表現をどのように規定しているのか、未来の表現はどのように変化していくのかを研究しようというものである。たぶんそれは、現行のマンガ表現論を補うだけではなく、「マンガ産業」の未来も規定していくものになるはずである。

どの製造業にも「基礎開発部」のようなものがある。特に家電メーカーなどは、莫大な資金を投じて10年後、20年後の商品化を視野に入れた研究開発を行っている。これは当たり前のことだと思うのだが、出版社として20年後のマンガはどうなるかを研究しているところなどない。

版元は商品である基礎研究開発を現場の作家・編集者に一任しているわけだが、これではいつまで経っても手工業的な「秘技伝授」が支配する場であり続けるだけである。こうした部分こそ、大学がやるべきだと私は思う。このことについてもっと書きたいが、紙数が尽きた。次の担当回ではぜひ続きを書きたい。(2008年7月「ちくま」)

◎つづく→★


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“マンガと大学教育(1)「マンガ工学部」の可能性” への1件のフィードバック

  1. [book][news][comic]漫画工学の可能性/つづきは「たけくまメモ」で!

    つづきは「たけくまメモ」で  ご存じ、竹熊健太郎先生のブログ「たけくまメモ」。  かつて「ちくま」に連載されていた竹熊さんの記事がぼくらにも読めるようになっています。 マンガと大学教育(1)「マンガ工学部」の可能性: たけくまメモ マンガと大学教育(2)「メデ…

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