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2005年1月29日

W・マッケイ(3)恐竜ガーティ現る

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Mos01アニメ版『リトル・ニモ』を発表した翌年、マッケイは『蚊はいかにして行動するか』(1912)を制作した。ここで彼は2つの試みに挑戦する。ひとつは作品に簡単なストーリーを与えることであり、もうひとつは「背景」を描くことであった。

前者はともかく、後者にはかなりの技術的困難が予想された。それというのも、この時期はまだセルが発明されておらず、背景とキャラをすべて一枚の紙に描かなければならなかったからだ(セルの発明は1915年)。数千枚も描くとなると、これにかかる手間は想像を絶しよう。またどんなに正確にトレースしたとしても描線に揺らぎが生じるので、完成したフィルムでは静止すべき背景がビリビリと振動してしまう。

Mos02背景とともに一枚の紙に動画を描く手法は、我が国では戦前「稿画式」または「推敲法」と呼ばれた(アニメ史研究家・津堅信之氏のご教授による)。現在でも「紙(ペーパー)アニメ」と称されて、自主アニメやアート系作品に使用されることがある。前述のような欠点はあるものの、一人の作家が画面のすべてを自分のタッチで統一できるという利点があるからだ。

Mos03『蚊はいかにして行動するか』は、巨漢の男の睡眠を邪魔しようとする、一匹の蚊の話である。蚊と人間のスケールが意図的に混乱されており、蚊がまるで巨大な怪物に見える。男の血液を吸うたびに蚊の腹部が膨れていき、ついには破裂する。どこまでも肥大化する生物は、マッケイ作品に繰り返し登場するモチーフだ。『リトルニモ』に見られる「可愛らしさ」はここでは影をひそめ、「グロテスクな愛嬌」とでも呼ぶべき奇怪なイメージが強調されている。

さて1914年、マッケイは彼のアニメでもっとも有名な『恐竜ガーティ』を発表した。ガーティはおそらく、世界で最初に人気の出たアニメオリジナルのキャラクターである。彼女は岩や巨木を食べ湖の水を飲み尽くすかと思えば、愛嬌をふりまき、自分より小さいマンモスにおびえ、マッケイに叱られるとベソをかく。まさにキャラクター(Character=性格)という言葉にふさわしい人格(?)を持った存在なのである。

gertie_001映画は『リトル・ニモ』と同じく、実写パートとアニメパートに分かれ、まず実写でマッケイがガーティを描いたいきさつが語られる。ある日、マッケイがマンガ家仲間と連れ立ってドライブに出ると、途中で車がパンクしてしまう。停まった場所はちょうど博物館の前だったので、修理の間、博物館見学をしようと誰かが提案する。館内には巨大恐竜の化石が展示されていた。友人が「いくら天才マッケイ君でも、見たことのない恐竜を動かすことはできないだろう」と言うと、マッケイは意地になり、「できるとも! 諸君、私に半年の時間をくれるなら、この有史以前の恐竜を現代に蘇らせてみせよう!」と宣言する。

gertie_004ここからメイキングに入り、マッケイが半年間の呻吟努力の末、1万枚の原画を描く過程が示される(実際には数千枚程度だと思う)。数ヶ月後、友人の家で開かれたパーティの席上で作品を披露するマッケイ。彼は壁に貼られた大きな紙に岩山を描き、そこに洞窟を描き入れると、画面の外から「出てこい、ガーティ」と呼びかける……。すると太古の恐竜がもじもじと照れくさそうに、ユーモラスなその巨体をスクリーンに現すのである!

……と、映画ではなっているが、もちろんこれはやらせの再現風ドラマだ。『リトル・ニモ』もそうだったのだが、マッケイがアニメ製作を思いついた最大の動機は、自分の舞台でショーとして観客に見せることにあった。まずマッケイが大きな紙にキャラクターを描き、舞台が暗転すると同時に、タイミングをあわせて映写機がその場所にアニメを映し出す。すると観客はまるで先ほどの絵がそのまま動き出したかのような錯覚に陥って、大いに驚くわけである。『ニモ』も『ガーティ』も、最初はこのようなパターンで上映されたことは、ほぼ間違いがない。

gertie_005しかし、これだとライブでしか上映できないので、効率が悪いと考えた興行主が、実写映像をつけて映画館にかけることを考えたのであろう。この目論見は成功し、『恐竜ガーティ』は世界中で上映された最初のヒットアニメとなった。それと同時に、アニメは金になると気が付いた資本家……特に人気マンガ家を抱える新聞経営者が多かった……が、次々とアニメスタジオを設立したのである。さらには、翌1915年にセル方式が発明されたことで分業が可能となり、ここにアニメは産業として確立していくのだ。

gertie_015ところでセル方式以前のアニメーションは、「紙アニメ方式」しかなかったのかといえば、そうではない。キャラクターの動きのある部分を切り抜いて、背景の上に乗せながら撮影する方法……「切り抜き法」も多く使われた手法である。この手法のメリットは、もちろん背景画が一枚で済むことである。また手慣れればかなり高度な動きも表現でき、現在もロシアのユーリ・ノルシュテインなど、アート系アニメで愛用する作家が多い。我が国にも戦前に活躍した村田安治という切り抜き法の名手がいた。

gertie_016マッケイも当然、切り抜き法を知っていたと思われるが、なぜこれを使わず、より手間のかかる「紙アニメ方式」に固執したのだろうか。ここは筆者の想像になるが、おそらく映像の「回り込み」や「キャラの奥移動」、そして「メタモルフォーゼ」をスムーズに行うには、すべてを手で描く紙アニメ方式がすぐれていたからではないかと思う。切り抜き法は、キャラの横移動などには効果を発揮するが、キャラの大きさが変わったり、極端に形が変わるような表現は不得手なのである。

gertie_017マンガにおける『夢の国のリトル・ニモ』そしてアニメ『恐竜ガーティ』の成功は、マッケイに富と名声をもたらした。当時の彼は、いわば戦後日本における手塚治虫のような存在であるといえる。パイオニアにして第一人者。実際メタモルフォーゼに対する強いこだわりなど、両者には興味深い共通点も多いのだが、これについてはいつか機会を見て論じてみたいと思う。

さて『恐竜ガーティ』が上映された1914年は、世界にとっては重大な年である。第一次世界大戦が勃発したのだ。当初、対岸の火事として戦争から距離を置いていたアメリカだったが、翌’15年、イギリスの豪華客船ルシタニア号がドイツ軍の攻撃を受け、1189名の乗客が死亡するという大惨事が起きた。そして犠牲者に128名のアメリカ人が含まれていたことから、アメリカ国民は憤激し、時のウィルソン大統領は、参戦してドイツと戦うことを決意するのである。

マッケイもまた、一表現者としてこの事件を見逃すことはできなかった。事件の報道に接し、また関係者から直接惨劇の様子を聞いたことで、これを歴史的記録に残すべく、事件の一部始終をアニメーション化することを決意したのである。しかもそれは、彼が得意とするファンタジーではなく、あくまで現実的な、シリアスな表現でなければならなかった。これはアニメとしても途方もない企てである。およそ3年の歳月をかけ、奇跡のリアル・アニメーション『沈みゆくルシタニア号』が完成したのは、1918年のことだった。

※(4)につづく→


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| コメント(13)

“W・マッケイ(3)恐竜ガーティ現る” への13件のフィードバック

  1. naga より:

    おぉ、勉強になります。
    今回は『セル方式』導入あたりの話ですが、
    あと五年くらいすると
    「セル? アニメって、
    原画以外は、全部PC上で作業するんでは?」
    みたいな人がでてくるんでしょうなぁ…
    このブログ、基本的には、
    『アニメ史』と、
    『TINAMIX』でやっていた
    「見る阿呆の一生」
    http://www.tinami.com/x/takekuma/index.html
    の、二本立てなんですね。
    (『ゾンビになりたい』なんて、
    「見る阿呆の一生」の1978〜1979と
    言われてもでもおかしくないし…)
    話はちがいますが、
    『ササキバラ・ゴウのサイト』
    http://homepage3.nifty.com/sasakibara/
    『1978年論ノート』
    『1978年論ノート10■店頭コピーサービスの普及』
    http://homepage3.nifty.com/sasakibara/1978/1978_10.htm
    の、
    『■コピーが1枚10円になったのはいつか?』
    て、おぼえてませんか?
    (ちょうど、
    『「見る阿呆の一生」第6回 1978(昭和53年)その1 – ミニコミ「摩天楼」を創刊する。』
    http://www.tinami.com/x/takekuma/06/
    よんだばっかりだったので…)
    『アニメ史』の方にもいえることですが、
    新しく出てきた技術と結合して、
    それまでに存在しなかった文化がでてくるのは面白いですね。

  2. たけくま より:

    ↑まあ今はそういう構成になっておりますが、基本的には自分の関心領域に沿って気ままに更新していきたいと思っています。
    チナミックスの「見る阿呆」ですが、実はこの春にイーストプレスから出る『竹熊漫談2』に収録予定ですので、できればこちらもよろしく。
    単行本については、来週あたり本格告知したいと思っています。
    コピーが十円というのは、よく覚えてないけど80年代に入ってからじゃないかなあ。高校時代だと、25円から50円はしていたような気が。

  3. マッケイの絵が動く

    たけくまメモさんでしって以来、
    気になる存在になってきた(恋かな・・?)
    W・マッケイのアニメを見つけたのでテンション上げずに紹介するよ。
    『…

  4. mk より:

    いつも楽しく読ませて頂いてます。昔大学時代にこういうことやってまして、懐かしくなってつい、コメントしまいました。
    アニメ研に入部したてのころ、新入部員一人ずつ100枚ちょっとの作画を紙でやってました。そして先輩がそれぞれのアニメをメタモルフォーゼで繋いで1つの作品にしてくれて。
    当時は8ミリで撮影台に一枚一枚乗せてパチリパチリとやってましたね。もう10年前の話です。背景も全部紙で書いて切り抜いたり・・・嫌気がさしてコピー(10円)使ったりもしました。
    そのうち8ミリのフィルムが入手しにくくなってきたので、デジタルで作るようになりました。背景の合成が楽だったり絵の具代が掛からなくなったのは嬉しかったですね。でも、色々楽になったけど、表現的に安易な感じも少ししてました。時代の流れですかねー。
    W・マッケイ氏のお話の続き、楽しみにしてます!

  5. ああ より:

    >正確にトレースしたとしても描線に揺らぎが生じるので、完成したフィルムでは静止すべき背景がビリビリと振動してしまう
    うーむ某2772はガーディへのオマージュだったのか

  6. ロト より:

    ササキバラさんご本人にも電話で話したことがありますが、『宇宙戦艦ヤマト』の放映中の1974年にはすでに神田神保町の確か書泉グランデにユービックス(小西六)の10円自動コピーがありました。そこで設定書をコピーしてると話しかけられて……という文化の当事者です。ちなみにアニメの現場は早いところはゼロックス導入、しかし青焼きもタツノコなどかなり使っているところが多かった時代です。
    80年代というのはコンビニ普及の一環で、学生ノート丸写し用で集客(もともと神保町もそれ)として……という感じではないでしょうか。

  7. たけくま より:

    >ロトさん
    え、そうだったんですか。
    というか、そうか、学生街とか神保町なら需要がありますしね。僕は神奈川の厚木だったんですが、不動産屋がコピー入れて、ついでに一般にも有料で使わせるというのが多かったので、一枚20円くらいとりやがってましたよ。A4=20円、B4=40円とかむちゃくちゃでした。
    ただ同人誌に関しては、少ないページ数で20部程度の少部数ならともかく、100部とか刷ろうとするとコスト的には軽オフしかなかったですねえ。同人誌文化を支えたのは、コピーというより軽オフだったんじゃないでしょうか。

  8. 長谷邦夫 より:

    ぼくが今年3月まで住んでいた南那須・大金
    という町の薬局・小書店兼業のお店では
    1枚20円でした!
    近所のコンビニが10円なのを気がつかない
    というか、奥さん・旦那がコピーを取って
    くれるんですね。
    手数料か??とにかく時間が死んでいる店で
    した。今でも20円のはず。
    お客さんはクレームつけないんで知らない
    ままなんでしょうね。

  9. ロト より:

    >たけくまさん
     黎明期の(1974年ごろ)のアニメ特撮同人誌ですが、怪獣系は青焼きないしガリ版、または簡易謄写版か事務用コピー(ゼロックス)でスタート。ヤマトは謎の化学臭のするコピーでした。確かに1975年に自分の関与したヤマト同人誌が水道橋駅前の印刷屋を使った軽オフで、これがかなり画期的なことでしたが、それから数年間は、特に怪獣系はガリ版や青焼きが併走していたはずです。これもオフに切り替わるのは1977~78年ごろでした。
     あと版下づくりのために縮小・拡大コピーが必要だったので、業務用の大型コピー機のある神保町にはその時期でもずいぶん通いましたね。
     今はDTPでちょいちょいと出来ることですが、なんという手間をかけていたのかと思い出すと気が遠くなります。

  10. ロト より:

    書き忘れましたが、初期の特撮系のガリ版同人誌では写真部分は切り貼りでした。専門知識のある人は薄い印画紙で複写した写真を焼きつけ、そうでない場合は多少潰れるのを覚悟でユービックス系のハーフトーンが少しは出るコピーを(ゼロックスは飛んでしまう)、いずれにしても1枚ずつノリでページに貼っていました。
    コピーが写真のようにハーフトーン出るかどうかはアニメ研究の場合は死活問題?で、それは原画の影が色鉛筆だからなんですが、78年ごろはどうやらリコーのコピーがハーフが出ると研究が進み(笑)、東横線の妙蓮寺にあるカメラ屋にしかないコピー機で、ずいぶんとコピー取りました。まあ、それが20年経って使ったりするとは思いませんでしたが、モノクロページに掲載する分には差がほとんどなく、全部原紙だと思ったひとも多かったようです。
    なんて、初期にあった設定書や原画に対する機微が後世にはぜんぜん伝わらなくなかったようで、ちと困惑してたりして。

  11. たけくま より:

    >ロトさん
    うわ、コメント欄で書くにはもったいなさすぎることを! 僕が高校に入ったのは1976年ですが、そのとき2年上の先輩が軽オフで同人誌を作っていました。それは16ページくらいのペラペラのもので、百部くらいでしたが1万円で印刷できたというんですよ。それで僕も調子にのって雑誌を作ろうと思い、版下作って近所の印刷屋に生まれてはじめて持っていったら、5万とか請求されて目玉が飛び出たことがあります。
    そのとき始めて本式のオフセット印刷と、軽オフの違いを知りました。最終的に、印刷屋の親父には頭を下げて3万円まで値切りましたが。
    コピーは、それでミニコミを作っている人もいましたが今で言うオン・デ・マンド式のもので、一度に十部程度作って友達に売るとか、そんな感じだったような。百部とかになるとコスト的にとても合わなかったですね。
    ガリ版は僕も愛用しましたけど、基本的に図版が載せられないという欠点が。切り貼りというのは、ただ驚きです。そういえば藤原カムイとか、中学時代にガリ版でマンガの同人誌作ってましたよ。見せてもらったことありますが、キチガイかと思いました。プリントゴッコじゃなくて、ロウ原紙に鉄筆で描いたホンモノのガリ版で、コママンガをガリガリ描いてるんですよ。
    ロトさんとは世代が何年かずれているので、僕の時はさすがに青焼きは下火になってました。それで作った同人誌は見たことはありますが、自分でやったことはありません。
    当時はコピーもそうですが、軽オフもハーフトーンが出にくくて参りました。結局、図版を印刷するのに本格オフセットにかなう技術はしばらくはなかったですよね。78年頃からマンガ同人誌がさかんになる背景には、印刷コストがその頃から劇的に下がったことがあるんじゃないでしょうか。
    って、ここで議論するのはちともったいな話題です。実は今度出る拙著に高校時代の同人誌のことも書いたんですが、本が出るタイミングでもこの話題を蒸し返すかもしれませんので、そのときロトさんのこのコメントも再録したいですがいいですか?

  12. ロト より:

    >たけくまさん
     再録はどうぞ。いつも楽しませていただいているお礼としては安いものです。
     ガリ版は高校のときに新聞部の友だちに頼んで機械を使わせてもらい、初同人誌体験はソレです。ヤスリと鉄筆の本式のガリの他に、ボールペンでこするという簡易版があって、修正液が死ぬほど臭いという。そうだ、私もそれに直にゴジラの絵を描きましたよ。今となってはとても他人には見せられませんが……。
     まあ、そんときのゴジラ20周年関係者座談会の再録も、その同人誌から転載されて活字化されていたりするので、やっておくものだなあとも思います。

  13. xtc より:

    うう、この辺のコメント高レベルですね(汗
    たしかネギま、というか赤松先生も、切り抜き法で漫画を描いてらっしゃるはずです。
    人数が増えると原稿が分厚くなるとか何とかw

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