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2005年9月29日

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(1)

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Amazon.co.jp:本: テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

 以下の文章は先頃刊行された伊藤剛の著作『テヅカ・イズ・デッド』を読んでの感想であります。とはいえ書き始めたらとまらなくなり、内容紹介を含めて相当な分量になってしまいました(しかも、まだ書き終わっていない)。マンガ論としては久しぶりに出た本格的な理論的著作であり、2年半に及ぶ本書の「産みの苦しみ」のプロセスを友人として端から見ていただけに、個人的にも感慨深いものがあるのは確かであります。

マンガ表現やマンガ史における新見解をいくつも含んだ野心作で、かなり専門的な内容(価格も専門書的)ですが、難解な用語をことさらに駆使しているわけではなく(むしろそれは最小限に抑えている感じ)、マンガ表現に関心のある人なら、一度は目を通して損はない出来だと断言できます。この感想はまだ執筆途中ですが、なかなか終わらないので「短期連載」にしました。本書における伊藤くんの論旨には私自身のマンガ観にも反省を迫る部分があり、したがって単なる紹介を超えた「俺語り」の部分が出てしまったことを、最初にお断りしておきます

書き下ろしのマンガ論としては、近年まれに見る快著が出た。伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド~ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版、2400円)がそれだ。実は版元の好意で発売前に著作を入手していて、本来ならすぐにでも紹介記事をアップするつもりだったのだが、今日まで延び延びにしてしまった。それというのも、本書は「マンガの見方」に関する新見解や、先行世代の評論家(もちろんそこには竹熊も含まれる)への本質的な批判が含まれているので、とても高見に立って気楽に感想を書ける種類の本ではなかったからだ。

本書の第一の目的は、戦後の「マンガ史」や「マンガ語り」を無意識的に支配していた「起源=神様としての手塚治虫」という呪縛を、主にマンガ表現論の手法を駆使して解くことにある。同時にこれは「(手塚中心史観を離れた)ありのままのマンガ観」がどこまで語れるか? という本でもある。このありのままのマンガ観、本書のサブタイトルに倣えば「ひらかれたマンガ表現論」には、当然手塚マンガそのものも含まれる。その意味で、手塚マンガや手塚本人を貶めるものでは決してない。

もちろん手塚以前のマンガ史については、近年の宮本大人らの研究によって「物語マンガの創始者」「映画的手法の元祖」としての手塚治虫像は崩れつつある(探せば探すほど、前例が出てくるのだ)。今では無邪気に「マンガのすべては手塚から始まった」と公言する論者は、さすがにいないだろう(不勉強な人を除けば)。

にもかかわらず、問題の本質は深刻である。意識のうえでは「手塚は神様ではない」と思っていても、心の奥底では抜きがたい信仰のようなものが、現在までのマンガ論を支配してきたと考えられるからだ。伊藤は、そのひとつの現れとして手塚の死後、90年代に入って顕著になった「マンガはつまらなくなった言説」(伊藤剛命名)に着目する。本書の第一章は、まるまるこの「つまらなくなった言説」の検証に費やされている。

Amazon.co.jp:本: まんが解体新書―手塚治虫のいない日々のためにPCCブックス

←村上知彦『まんが解体新書』。世代論に立脚した論者による典型的な「マンガは終わった言説」本。

具体的には、70年代から80年代を通じて「マンガ評論」を支えてきた論者、たとえば村上知彦、米沢嘉博といった人たちが、90年代に入るや口々に「マンガの停滞」を言い始めたという事実がある。それの集大成といえるのがマンガ批評誌「COMIC BOX」95年7月号の「まんがは終わったのか?」特集である。ここでは前述の論者に加え、マンガ家のいがらしみきおが「(マンガにおける)物語は終わった」とインタビューに答えている。そして「COMIC BOX」はこの特集を契機にしたかのように失速し、発刊ペースを急激に落としていくのだ。

伊藤剛自身、ある時期までは漠然と「つまらなくなった言説」を支持していたそうだが、実態としてのマンガを見るにつけ、本当にそうなのか? と疑問を持ち始めたのだという。

たしかに93年正月号をピークに「少年ジャンプ」は大幅に部数を落とし、他のマンガ雑誌、とりわけ青年誌も軒並み部数を落としている。現在もそれは、総体として回復傾向にあるとはとてもいえず、ここからも「マンガはつまらなくなった言説」が実態として裏付けられているように見える。

だが見方を変えれば、少年誌一誌が単独で600万部を超えていたあの時期の方が異常なのであって、現在はむしろ適正部数に戻ったと考えることもできるのだ。いわゆるマンガバブルがはじけた以降も『バガボンド』や『ONE-PIECE』のようなメガ・ヒットは相変わらず出ているし、『鋼の錬金術師』のような月刊連載にもかかわらずミリオンセラーを記録する作品も出ている。

そうして、そうした人気作品をちゃんと読めば、それなりに面白く、人気の理由も説明がつくものである。つまり、とても「マンガはつまらなくなったとは言えない」というのが、伊藤の正直な実感なのだ。しかし「マンガ評論」の現場はというと、相変わらず評論家が「つまらなくなった」「停滞している」と繰り返すばかりで、きちんと「現在のマンガ」が読めていない。とりわけ『ハガレン』のような作品は、存在そのものが「ない」ことにされているのではないか?……という先行世代の評論家への強烈な違和感が、伊藤が本書を執筆するに至った最初の動機であるという。

とはいえ、論旨を単純な世代論に持ち込まないところが、本書の美点であろう。この種の問題を世代論のみに回収してしまうと、どう言葉を繕おうが、要するに「今のマンガが読めなくなったのはその評論家が歳をとったからだ」という身もフタもない結論になってしまう。いや正直、それはある意味正しいのであるが、しかしこれでは「年寄りは引っ込んでいろ」という不毛で感情的な世代間闘争に収斂するばかりだろう。その論法をとる限り、いずれは自分も同じセリフでより若い世代から排斥されるのは目に見えている(歳をとらない人間はいないのだ)。古典芸能ならいざ知らず、マンガが「生きた表現」である限り、これは避けられない事態である。建設的な議論に発展するとは、とても思えない。

そうではなく「なぜ、ある世代までの手練れのマンガ読みたちが、手塚の死後、現在進行形のマンガが読めなくなったのか? それには何か理由があるはずだ」というより本質的な設問を立て、その「理由」を解き明かした上で「現在」に対応する新しい「マンガの読み方」を提示することこそが、本書で伊藤が試みたことである。伊藤の論点を採用するなら、たとえば「キャラ萌え」のような、先行世代にはなかなか理解できず、それゆえに論じられることもなく「黙殺」されている90年代以降に顕著となった現象を、ただしくマンガ史上に位置づけることも可能になる。これは相当に野心的な試みであり、そうした作業に2年半をかけた伊藤剛の執念というか「剛力」には敬意を表するしだいである。

(つづく)


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| コメント(19)

“伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(1)” への19件のフィードバック

  1. 坊や哲 より:

     早速、読んでみたくなりました。
     わたし個人的には手塚治虫に格別の思いはないように感じていましたが、無意識に刷り込まれていた気もします。
     わたしにとって、手塚的イメージとは、「まんが道」における氏の描かれ方に他ならないのです。おそらく、専門的に研究している方でなければ、70年代生まれ(あるいはもっと前?)の人間は、あの光り輝く手塚治虫像を思い描くのではないでしょうか。
     もうひとつはまぎれもなく、竹熊さんが以前に書かれていた数々の伝説によるものだと確信しております(ちょうど長嶋の現役を知らないまでも、ミスターの伝説によって無意識下に天才イメージが刷り込まれるように)。

  2. 眠い時間 より:

    1965年生れの私にとって、手塚治虫の存在は「あって当然」「安心の娯楽提供者」でした。貧乏な借家住まいでしたが、そんな家庭にも次がありましたよ。『アトム』ならシール、『マグマ大使』なら糸人形(ロッテのノベルティグッズ)、『どろろ』ならクッション。
    ●アニメ
    『ジャングル大帝』と『リボンの騎士』は、再放送をくり返し視聴。『あしたのジョー』は、なぜ虫プロ製作? とSF(少し不思議)。
    ●マンガ
    中学1年のとき、『きりひと賛歌』を赤面して購入。でも貧乏のため1巻だけ(続きは大学生のとき)。
    ●人となり
    水木しげる、楳図かずおの「手塚の印象」を読んだとき、残念に、いえ、嬉しく思いました。「やっぱり嫌な面があった」のが確認できて(笑)。あと、馬場氏の見解も(手塚の王様気取り?)。
    今も手塚作品が好きです、特に『きりひと賛歌』が。ですが、権威が嫌いな私は、アンチ手塚です。同じ理由で、ジブリ関係者も嫌いです。鈴木Pは詐欺師にしか見えません(あくまで私見)。
    さて、『テヅカ・イズ・デッド』のタイトルから、この本の中の手塚像に興味が出ました。黒い笑いで、楽しく読めそうで(笑)。
    たけくまさんが内容を「すご~く良い」と認めていらっしゃるのだから、マンガ評論として優れているのは太鼓判。これは、立ち読みせねばなるまい! そう強く思った次第です(2,400円かァ)。
    余談ですが、唐沢俊一氏がどんな見解なのか。それも気になりました。長文、失礼しました。

  3. レポレッロ より:

    >さて、『テヅカ・イズ・デッド』のタイトルから、この本の中の手塚像に興味が出ました。
    >黒い笑いで、楽しく読めそうで(笑)。
    しかしこのタイトル酷くないですか?
    筑紫哲也著「小津の魔法使い」と同じ位(笑)タイトルみただけでムカムカしたんですけど。
    伊藤さんのブログみて「王は死んだ、新王万歳!」のモジリなのが分かって納得はしましたが、自分も一応この慣用句(?)知ってましたが思い出しもませんでしたね。手塚はマンガの神様であって王様じゃないですから。
    内容が素晴らしい本なら尚更タイトルには気をつけて欲しいですね。
    普通は挑発的なタイトルにしか思えませんから。

  4. 忍天堂 より:

    結局つまらなくなったとされる原因は現代漫画に問題があるのでは無く、
    現代漫画が読めなくなったという事で先行世代の評論家自体に問題があるという事ですよね。
    >「なぜ、ある世代までの手練れのマンガ読みたちが、手塚の死後、現在進行形のマンガが読めなくなったのか? それには何か理由があるはずだ
    分野が多種多様になり過ぎて先行世代の評論家が付いていく事が出来なくなっているだけだと思うのですが、それ以外に理由があるのでしょうか?
    まあ、ここが一番核心部分なので買って読みなさいという事でしょうけど(笑)

  5. たけくま より:

    >レボレッロさん
    実は私も最初はそう思いました(笑)。
    でも中身が予想以上に(失礼)充実していたので、読み終わるとそんなに気にならなくなりましたけど。

  6. 匿名 より:

    >普通は挑発的なタイトルにしか思えませんから。
    そうでしょうか?自分は手塚作品がまだまだ全然死んでいない(何しろ05年の現在、ゴールデンタイムでBJが放映されているのですから。ブランド化の危険すら感じる程です)現状を考えると、そんなに挑発的なタイトルには思えませんが…。

  7. レポレッロ より:

    >現状を考えると、そんなに挑発的なタイトルには思えませんが…。
    いや「手塚治虫の死」とか「手塚マンガの終焉」とかいうタイトルなら別に腹は立たないですよ。実際手塚治虫はもう死んでるわけだし手塚マンガもいずれ読む人はいなくなるかもしれません。
    ただ「テヅカ・イズ・デッド」などと軽く書かれると、揶揄されたような気がするんですよ。
    私は別に手塚ファンじゃないし、どちらかといえば手塚マンガはあまり好きではないんですが・・・そのくせ他人に手塚を馬鹿にされるとなにか猛烈に腹が立つんですよ(笑)。父親を煙たがってても、他人から悪口言われると腹が立つのと一緒でしょう。
    我々やそれ以前の世代のオタクは、良かれ悪しかれ手塚マンガやアニメに首までどっぷりつかって育ってますからね。
    私自身は(前に書いたように)これが英語のモジリであって悪意はないと分かりましたが、中味を読めば分かるといってもほとんどの人は読まずにタイトルだけで判断されてしまいますから。

  8. カヲル より:

    私が小学生だった頃(八十年代半ば)、手塚はすでに過去の存在でした。
    「なにが神様だよ、ダセー、古ー」
    私が高校生の時、
    ふとしたきっかけで「アドルフに告ぐ」を読みました。
    その面白さに衝撃を受けました。
    「手塚はダサイ、古い」という先入観をひっくり返す衝撃。
    以降、手塚マンガを読み漁りました。
    読めば読むほど「手塚は凄い!」と評価は上昇。
    今ではすっかり、私の中で、
    手塚こそが「マンガの神様」です。
    それはそうと、現在のマンガって展開がタルイですよね。
    ちょっと人気がでちゃうと連載が終わらなくなるし、
    終了したかと思えば、ラストはグダグダだし。
    「10年付き合わされて、なんだよこのラストは!」
    そんなマンガばかり。
    展開を早くして、作者がガス欠になる前に、
    きちんとラストを描ききってほしいなあと。
    一読者の願いであります。
    やっぱりね、手塚は凄いよ。
    たとえば「火の鳥・鳳凰編」は単行本一冊だもんね。
    あれだけの内容を一冊にまとめちゃうんだもん。
    井上雄彦に爪の垢煎じて飲ませたいよ。
    井上なんかじゃ30巻費やしても描ききれないだろうね。
    まとまりの無い文章、失礼しました。

  9. 烏賊神博士 より:

    英語のもじりもなにもモリッシーからとったことは誰だってわかりそうなものだ。

  10. まーとれっと より:

    ザ・スミスの「クイーン・イズ・デッド」ですね、
    英語だと軽いと感じてしまうのでしょうか。

  11. よし より:

    タイトルだけを見て、買い手が腹を立てれば立てるほど、売り手にとってはシメシメという感じでしょうね。
    それ以前に、普通に一般教養程度のもじりだと思いますけど。
    それこそ万回使われたフレーズです。

  12. かなびん より:

     「テヅカ・イズ・デッド」未読です。過激なタイトルというか、今になってタイトルに「テヅカ」の名を含める事に逆に強烈な思い入れのようなものを感じ取ったのですが、この記事でそういった先入観をが薄まり、興味をひかれました。
    >私が小学生だった頃(八十年代半ば)、手塚はすでに過去の存在でした。
     カヲルさん、おそらく私と同年代か少し上かと思われますが(当方78年産まれ)、この時期の手塚治虫(この場に限っては敬称略)及び、漫画の多様性は、子ども達にとっても多様だったと思います。
     私が最初に読んだのは幼稚園の頃、兄の持っていた鳥山 明「Dr.スランプ」と「マイチング・マチ子先生」、叔父の本宮ひろし「群流伝」4巻(何故かこの巻だけ)でしたが、幼稚園年長から小学校高学年にかけては雑誌「りぼん」を購読する一方で手塚漫画に夢中でした。古本以外で初めて買った単行本も手塚治虫の「三ツ目がとおる」でしたし。
     お小遣いの限られた漫画馬鹿小学生にとって、図書館や児童館、そして当時通っていたアトリエにあったのが手塚治虫でした。そうやってすでに権威付けされてしまったという点ではリアルタイムでは無いのかもしれないけれど。
     長谷川町子や「裸足のゲン」もあったはずなのに、何故か「火の鳥」や「ブラックジャック」ばかりを繰り返し6年間読み続けていました。
     一番手塚漫画を読んだのはアトリエ教室でなんですが、そこに置いてあるやつなんて、すでに読み倒され製本が崩れてて、いきなり手術シーンから始まって次の回の患者の急変で終わるような代物で、それを6年間何度も読んでました。
     お小遣いが乏しいといっても当時の小学生の平均だったと思います。ただ、漫画への欲求がそれを遙かに上回っていて、それを満たしてくれたのが手塚漫画でした。自分にとっては思いっきりリアルな存在でした。
     中学の時も時々は読んでいたし、高校以降に新たに自分で購入した事を考えると、個人的体験としては、今まで手塚治虫が途切れた事は無かったような気がします。
     ちなみに、浅く長く読んでいたので、アンチでも盲信者でもありません。
     ・・・ちょっと自分の話が長くなってしまいましたが、同年代でも、人によっては「ドラえもん」や鳥山明を好きだった人もいれば、親の漫画の嗜好が影響し60~70年代のヒット作を浴びて育った人、逆に親から漫画を禁止され思春期以降から漫画を読み始めた人もいます。
     そういった個人的事情が無くとも、すでに漫画が多様化していた上で漫画を読んでいた世代です。 私たちの年代は特定の定義付けの上でないと漫画の新旧は決めづらいのではないでしょうか?

  13. かなびん より:

    >叔父の本宮ひろし「群流伝」4巻(何故かこの巻だけ)
     ややこしい日本語補足します。叔父の「持っていた」本宮ひろ志、です。まさか間違える人はいないと思うのですが、念のため(汗)。

  14. syuu より:

    「テヅカ・イズ・デッド」・・!
    ロックなものを感じます。
    ピストルズのジョン・ライドンの
    「ロックは死んだ」からじゃないのかな?
    挑発的で、いい。
    単に「ひらかれたマンガ表現論へ」というタイトルだったら、
    知らずに本屋で見かけても手に取らないかも。
    手塚作品では
    「アドルフ」「火の鳥」「きりひと賛歌」「B・J」
    でキマリですね。

  15. めたろう より:

    「テヅカ・イズ・デッド」アマゾンで予約しました。わくわく。
    ところで上記COMICBOXの特集についてですが。
    いがらしみきおさんの主張は、確か、はじめはPC雑誌「GURU」に掲載され、その内容も、「マンガの死」と言った狭義のものではなく、
    「ネットの勃興により表現のDIY化、インディーズ化は加速し、表現(全体の)の商業化産業化資本主義化が終わる」とでも言うべき、今日を予言した様な、非常に重要な内容であったと記憶しています。
    ところが彼がマンガ家であった為か、CB誌が上記の特集を組むに至り、問題が「日本におけるマンガ文化の終焉」と言ったレベルに矮小化されたきらいがあります。
    その為か、上記特集で「マンガは終わったと思いますか」との質問に回答を寄せた方の中にも、「問題設定がおかしいのでは無いか」と回答された方がいたのが印象的でした。
    私個人的には、確かに90年代半ばに、「戦後のマンガ産業」は一つの終わりを迎えたのだろうと考えます。
    しかしその後も例えばジャンプが鳥嶋体制化でファンタジィー路線に向かって(少なくとも内容的には)持ち直したり、その後極端に腐女子向けシフトを取って非難されたりといった、数多くの試行錯誤が繰り広げられています。
    確かコミックビームの創刊も90年代半ば以降では無かったかと。
    これらは上記「マンガ産業の終わり」を踏まえた動きだといえましょう。
    いがらしさんの主張の中に確か「これまでの『戦争』は終わり、何か全く違う事が始まろうとしている」という一節があったように記憶しているのですが、この十年にマンガ産業界に起きた変化は、マスを対象とした「総力戦」から、個別の趣味に特化した「局地戦」への変化と言うべき、大きな変化であったと思われます。

  16. めたろう より:

    (つづき)
    これは当然、マンガ界だけでなく、日本の文化、情報、流通、等等多くの産業において起きた「顧客の嗜好の変化」であり、「現在のマンガに対しての拒否反応」、は例えば大手スーパーの没落とも対応する、よりマクロな問題であるように思われます。
    「ストーリー重視からキャラクター重視へ」の流れも、こうした事と対応するのでは無いかと愚考します。
    ただ厄介なのは、狭い範囲の「ムーヴメントとしてのマンガ文化の盛衰・変化」と広い範囲の「日本の変化」の時期が一致していて、これらを分けて考えるべきなのか、そもそも分けがたく一致したものと見なすべきなのか、決めがたい、というところなのであります。
    仮にこれらを一致したものと見なす場合、
    90年代半ばに「戦後文化の終わり」と言うべき区切りがあったと考えるべきなのだと思います。
    例えば手塚治虫氏当人が、社会的にヒューマニズムのレッテルに反発しながら、その立場に祭挙げられ、マンガ界においては現役志向の強さにも関わらず、神格化から免れられなかった事は、「戦後文化産業としてのマンガ」の基盤として「手塚神話」が憲法9条のごとく必要であった、と言う事になるのであります。
    となると、手塚神話への挑戦と日本の右傾化はシンクロしておるのでは無いか、などと際限なく風呂敷が広がってしまいますので、今宵はこの辺にして風呂入って寝ることに致します。

  17. akakiTiysque より:

    テヅカ・イズ・デッドについて、自身の見解を書きました。泥縄ですが、目を通して頂ければ感謝の極みです

  18. akakiTiysque。 より:

    テヅカ・イズ・デッドasin:4757141297について

    先ず誉める。本書の主題であるキャラとキャラクター、マンガに於けるリアリティとリアリズムについての考察は非常にすぐれたものであり、このテキストがこの分野(マンガを歴史的中核とする日本型のキャラクター表現)を表現として論じる言論にとって画期的なものである事は疑いない。しかし、このすぐれた分析が悪しき政治的意図と結びついているのなら、最早誉めてばかりではいられない。 伊藤剛は 89年で歩みを止めてしまった者たちが、いくら「手塚は…」「赤塚は…」「石森は…」と言っても と書いています。ここで槍玉に挙げ…

  19. akakiTiysque。 より:

    マンガ(を歴史的中核とする日本型のキャラクター表現)を巡る言葉の歴史についてのメモ

    世代1:啓蒙主義的マンガ論 教育学心理学児童文学児童文化の関係者 世代2:大衆文化論としてのマンガ論 世代2-1: 「思想の科学」グループ(鶴見俊輔、多田道太郎、尾崎秀樹、佐藤忠男、) 世代2-2:石子順造 世代3:”マンガ世代”のマンガ論 世代3-1:漫画主義グループ 梶井純、権藤晋、宮岡蓮二、 石子順造の死後、曾て石子と一緒に立てた図式に固執し続ける 呉智英は漫画主義の寄稿者のひとりであったが石子の死後決別した 菊池朝次郎(山根貞男)は映画評論に転身した 四方田犬彦は生前の石子順造の周りにい…

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