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2005年10月3日

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(3)

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20050930224921

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

←伊藤剛氏から提供された表紙原画(画・和田洋介)

話を『テヅカ・イズ・デッド』に戻す。今までの文章をふまえて本書の論旨を私なりにまとめると、だいたいこのような展開になっている。

(1)マンガはつまらなくなった言説の検証

前回までのエントリでも述べたように、90年代に入り、団塊の世代(50代~)からオタク第一世代(40代~)にかけての論客の多くが、どうしたわけか口々に「マンガはつまらなくなった」と言い始めた。しかし現行のマンガは、一時ほどではないにせよやはり売れているし、伊藤からみて面白いマンガはたくさんある。必ずしもマンガ表現総体が衰弱しているとは思えないのだが、先行世代の論者は意識的にか無意識的にか「今のマンガ」を無視しているように見える。これはなぜか。

「つまらなくなった」ということは、「それまでは面白かった」ということである。であるならば、ある時期からマンガにおける「読まれ方=快感原理」の変質があったのではないかという仮説が立つことになる。

(2)いがらしみきお作品に見る「マンガの変質」

ここで伊藤が重要な発言として提示しているものが、90年代初頭からマンガ家のいがらしみきおが「GURU」などで発言していた「物語は終わった」論である。いがらしの当初の意図は、マンガだけではなく「物語メディア」全体に及ぶ広い状況認識に基づくものだが、これを「マンガは終わった論」の文脈に結びつけたものが95年の「COMIC BOX」「まんがは終わったのか?」特集であった。

igarashi-yannokakora ←いがらしみきお『やんのかコラッ』(1983、白夜書房)より。初期いがらしの過激な4コマの例。これは起承転結が比較的守られているが(2コマ目が「転」になっている)、4コマ全部使ってモテナイ男が女とやりたいと叫びながら転げ回っているような作品も多かった。初期いがらし作品は、喪男マンガの金字塔でもある。

いずれにせよ、いがらしのこうした認識は80年代半ばからあったようで、これに対する創作的回答として彼は『ぼのぼの』を連載開始したと思われる。これはまた「4コマ作家」としてのいがらしが80年代初頭から推し進めていた「物語(起承転結)の破壊」の最終答案のような作品であった。

『ぼのぼの』以前のいがらしは、4コマというフォーマットの中で過激な下ネタや自虐ネタなど、エログロナンセンスを極め尽くすかのような作品を描いていた。それは、作品内容における「常識(良識)の破壊」であるが、それだけではなく、しばしば起承転結を無視することで、それまでのストーリーテリングの「制度」をも破壊するものであった(彼の私淑していたいしいひさいちの影響もあるが、いがらしのそれは遙かに過激だった)。そして84年頃、まるでやりたいことはすべてやり尽くしたかのように彼は突然、休筆する。その後、2年の沈黙を経て86年に突然発表した作品が『ぼのぼの』である。

igarashi-bonobono ←いがらしみきお『ぼのぼの』(1986-、竹書房文庫、第一巻)より。『ぼのぼの』の第一回、一発目の作品である。伊藤も述べているが、これが最初のエピソードというのは、ある意味すごい。

『ぼのぼの』は当初、いがらしみきおの「転向宣言」であるかのように受け取られていた。起承転結(つまり物語構造)をはっきりと持たぬことは以前のいがらしマンガと同様なのだが、かつての「過激な描写」は嘘のようになりを潜め、ただひたすら「世界」の中で「かわいいキャラ」が戯れるさまを描いていたからだ。

ぼのぼのをはじめキャラクターたちは時折「哲学的」な台詞を口走りながら、無邪気な幼児とも、達観した老人であるともとれる態度でふるまう。そこにはかわいくほのぼのとした風情と同時に、どこか不気味なムードすら漂っている。「ただのかわいいマンガではないぞ」といういがらしの意図は、タイトルにすでに込められている。「ほのぼの」の濁点を一個増やして『ぼのぼの』にしたのは、そのためであろう。

私(竹熊)はかつて『ぼのぼの』の作品世界を「人類が滅亡したあとの美しい自然」と評したことがある。それまでの社会や人生を規定していた価値観や目的といった「物語」が無効化した後、それでも残りの人生を生きなければならないとするなら、われわれはどうふるまえばいいのか。そのことを、いがらしは問いかけているようにも感じた。

Amazon.co.jp:本: ぼのぼの (1)竹書房文庫

ある意味難解ともとれる作品でありながら、『ぼのぼの』はヒットした。なぜか。登場する「キャラ」が純粋に「図像レベルでかわいい」からである。そしてその「かわいらしさ」は、いがらし自身が各種インタビューでも認めているように、きわめて自覚的・戦略的なものだ。

伊藤本では扱われてないが、これはいがらしが『ぼのぼの』と平行して発表した『3歳児くん』という「幼児マンガ」、そして『のぼるくんたち』という「老人マンガ」とを対比させると、よくわかる。前者は、自我の確立していない幼児の奇妙な行動をテーマにした作品であり、後者に至っては登場人物全員が「ボケ老人」という過激な作品。いずれもドラマは最初から破壊されていて、もはやキャラ同時の会話すらまともに成立していない。「ボケ」だけで「ツッコミ」のない会話が、ひたすら続くような作品なのである。

「ドラマ不在の世界」にただ「キャラクター」だけが存在し、ひたすら戯れるという点で、『3歳児くん』や『のぼるくんたち』は『ぼのぼの』とほぼ同じ構造をもっている。にもかかわらず、『ぼのぼの』はアニメ化やキャラクター商品化もされるヒットになり、『3歳児くん』『のぼるくんたち』はヒットしなかった。その最大の違いが「かわいらしさの有無」にあることは明らかである。(3歳児くんは一見かわいらしいマンガなのだが、作品の主眼はむしろ自我の存在しない人間の「リアル(客観的)な描写」に向けられているようである。それはかわいさよりも不気味さがより前面に出る。この意味で『ぼのぼの』の「図像学的かわいらしさ」とは、一線を画しているのである)

「かわいらしさ」と「不気味さ」は表裏一体の関係にある。作者の、ほんのちょっとしたさじ加減で、どちらにも針は振れるのである。

伊藤は本書において『ぼのぼの』を「マンガ史の重要な切断線」ととらえる。それは「物語中心主義」から「キャラクター中心主義」へとマンガ表現が大きく転回していったことを意味している。私の考えでは、それは70年代末頃から徐々に進行していった事態なのだが、86年開始の『ぼのぼの』が、そうした事態をもっとも象徴する作品だったとすることには、異論はない。

《テクストの内部において、キャラが「物語」から遊離すること。そして、個々のテクストからも離れ、キャラが間テクスト的に環境中に遊離し、偏在することを、「キャラの自律化」ととりあえず呼ぶことにしよう。『ぼのぼの』が続いたこの一九年間、まさにその「自律化」が進行する過程であったといえる。私たちは、この「自律化」を積極的に享受し、消費していたのである。》(伊藤『テヅカ・イズ・デッド』p54)

この認識はおそらく正しい。ここから疑われることは、「マンガがつまらなくなった言説」の正体は、まさしく私がそうであったように、「ストーリー主義者」による「キャラクター主義」への嫌悪感ではないかということである。もちろん、事態はそこまで単純なものではないわけだが、あえて図式化すればそういうことになる。

※枚数制約のないブログであるのをいいことに、また道草を食ってしまった。いかんいかん。以下、(3)「キャラ」と「キャラクター」の分別 (4)「近代的リアリズム」から「萌え」へ と続く予定。次回こそ残りの感想をまとめたいと思いますが、そろそろ本業の締め切りがやばいことに…。でなわけで、しばらくお待ち下さい。

(つづく)


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| コメント(57)

“伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(3)” への57件のフィードバック

  1. Aa より:

    しょうこりもなくツッコミをさせていただくに、いがらしまんがは巷で言われているほど物語性しらんぷりなものとは私にはいまだに思えないでいます。
    いしいと比べるよく分かるのですが、いがらしの場合かなり無理をして自らのドラマ性を押えこんでいるような痛々しさをふっと感じるのですね。
    天才とくらべては気の毒なのですけど。

  2. マロー より:

    はじめまして、いつも楽しく拝見しています。
    なるほど、キャラクター主義は現状の「萌え」現象を説明するのにかなりわかりやすそうですね。続きが楽しみです。
    ところで「ストーリー主義からキャラクター主義への変遷」というのは、近年いわゆる本格SFのようなものがあまりウケないという事と関わりがあるのでしょうか?
    というのも、黄金期のSF(私はあまり詳しくは無いのですが)というものが、主人公の魅力そのものよりも、まさしくストーリーやアイデアをメインで読ませていくものだと感じているからです。
    このへんのところはどうなんでしょう・・・

  3. カイ より:

    Aaさんの言動は、①とにかく竹熊氏の言動には、それが何であれ、反発せずにはおれないという気持ちに発したものなのか(要するにアラシ)? それとも②純粋に竹熊氏の所論に疑義を呈するものなのか? ①だとしたらいちいちまじめに取るのは無意味だ。「ツンデレちゃ~ん、もっともっと罵ってえ!」と囃すしかない。②だったら、それなりに真剣に取り組まないと。まだ見極められない。

  4. はし より:

    キャラクター主義といえば高橋留美子の漫画もそうでしょうか。
    うる星やつらとか。これはいつごろの作品でしたっけ。

  5. たけくま より:

    ええ、「うる星やつら」のようなコメディや、「天才バカボン」みたいなギャグ物は最初からキャラクター主義になりますね。
    これについては次回の更新で詳しく紹介するつもりですが、ちょっと本業がヤバイので2,3日お待ちください。

  6. Aa より:

    のらくろ(ぼそっ)

  7. 長谷邦夫 より:

    ↑赤塚マンガ、『もーれつア太郎』は、
    発表前から東映がアニメ化をするという
    のを聞いて、下町浪花節物語を目指し
    ました。
    彼は、当時の東映なんかにギャグは
    演出出来ないと見切っていたからです。
    結果、マンガ連載は2年余ほど人気が
    出ませんでした。『天才バカボン』の人気
    は一気に盛り上がったのに…。
    そうした状態のとき、「べし」「ケムンパス」
    「ニャロメ」という<キャラ>が、コマの
    片隅に登場しはじめました。
    <キャラクター>では無かった。
    今、伊藤理論から分析すると、それが
    よく分ります。
    ニャロメは、別冊「花のデコッ八篇」に
    立ち姿のギャードマンとして「言葉」を
    持って活躍します。これが意外と面白い
    ところから、本連載に登場し完全な<キャ
    ラクター>として、活躍を始め、「物語」を
    ぶち壊し始めます。
    それによって人気は急上昇しました。
    マガジンから無理やり移籍したバカボンの
    連載を編集部が、もう要らないと言うまでの
    人気ぶりでした。
    べし・ケムンパスは<キャラ>にとどまった
    ままでしたね。~と、ぼくは整理できたんです。伊藤さんのお陰でしょう。

  8. たけくま より:

    ↑うあああ。次回僕もそのへん(赤塚キャラ)を取り上げようと思っていたのですが…。長谷先生では、仕方がありませんね(笑)。

  9. レポレッロ より:

    まだ「T・I・D」が読めないので、伊藤氏の理論を非常に簡潔に説明して頂いて嬉しかったのです。
    ただ「マンガのスタイルがキャラクター主義に変質しただけで今でも相変わらず面白い」のかといえばやはり疑問に思えますよね。
    例えば前回の話題だった「BJ」連載当時のチャンピオンでいえば、同時期に「ドカベン」「ガキデカ」や時期がズレますが「マカロニほうれん荘」まで連載されてます。
    当時がチャンピオンの黄金時代だったというのもありますが、ジャンプやマガジンも充実してました。
    今はたとえキャラクター主義のマンガでも後世に名前が残りそうな傑作が、同時に二本も三本も連載されているようなマンガ誌はとても無さそうに思えます。
    どうもマンガ界全体が(一時的な現象であるにせよ)やはり衰退(叉は低迷)してる様に思えて仕方ないんですよね。
    ところで「T・I・D」早く読んでみたいのですが、近所の本屋では置いてないんですよね。よほど売れてるんでしょうか?

  10. より:

    面白いです、このシリーズ。心待ちにしています。
    「商品化(映像化)」というのは現在の出版業界には欠かせない利益構造ですよね。
    「ストーリー主義者」による「キャラクター主義」といえば、手塚治虫氏もアトムのアイテム化により
    ボロ儲けし、以降、それを狙いすぎたが為に駄作を連発して、あの長いスランプ時期へ陥ったという
    要因の一つになったのではないかと思っています。結局、B.J等や社会人向けの漫画で復活しましたが、
    これは「キャラクター主義」からの「ストーリー主義者」への帰結ではないでしょうか。
    手塚氏の歴史を漫画史そのものとして鑑みると、「漫画がつまらなくなった」と感じているのは
    まさに現在がキャラクター主義後期ということにあてはまりますね。
    しかしながらヒット作品がコンスタントに出現しているという事実がありますが
    個人的には「年齢層の多重化」が理由だと思います。たけくまさんがドラゴンボールはつまらなく感じたと仰いましたが
    連載当時、小学生の自分にはこの上なく斬新で面白く感じました。しかし、今の少年週刊誌で読むマンガはほとんどありません。
    (青年誌や口コミで聞いた単行本などは購入していますが。)
    ですが、後輩(大学生)や友人の弟(中学生)などは今のジャンプやサンデーはかなり充実していると言います。
    おそらくこれは自らの読者としての観点が「ストーリー主義者」へと移行してしまったからではないでしょうか。
    いわゆる成人になるにつれてキャラクター(商品)に興味がなくなってしまったのです。
    これこそが「ストーリー主義」→「キャラクター主義」(隆盛期)→「ストーリー主義」
    という、漫画界及び、漫画読者としての感性の流れとなりうるのではないでしょうか。
    もちろん、人の感じ方はそれぞれですが、「どこから入るか」が違うだけだと思います。
    ちなみ自分もまだ「T・I・D」を読んでいません・・・。
    探しまわってるんですが・・・・。Amazonに頼もうかなぁ、左のリンクでは追加しないんですか?

  11. たけくま より:

    ↑BK1には在庫があるようですよ。
    http://www.bk1.co.jp/product/2598355

  12. より:

    ↑、ありがとうございます!送料無料なんで一緒に「ゴルゴ13はいつ~」も買いました(笑)

  13. 長谷邦夫 より:

    >たけくまさん。
    スイマセン、今日生徒に分りやすいと
    考えしゃべってみたんです。ということで
    バカボンの分析を是非ぜひ!お願い
    したいのです。この連載が始まって、
    マガジンの読者の評判は、そんなに悪くは
    無かったんですが、ぼくはまだ、『おそ松くん』の面白さに引かれていました。
    ところが、法政大学内でのトークイベントで
    真崎・守さんから、バカボンの方が
    格段に上だよ!と言われ、う~ん…と
    唸って、徐々に認識を改めていった
    記憶があります。
    連載後半からの部分ではノリにのった
    んですが、初期のキャラクターと物語に
    ついては、ぼくはいまだはっきり分析
    できないようなんです。

  14. トロ~ロ より:

    長谷さんの積極的なカキコミのおかげなのか
    「赤塚マンガ体験」の記憶が蘇りつつあります。

  15. 匿名 より:

    逆に「天才バカボン」や「マカロニ・・・」等はいまの若い人には笑えないマンガだと思います。つまり「マンガは面白くなっている」とも言える訳です。結局はその世代の「どんなマンガで育ったか」によるものはないのでしょうか。

  16. ゴン より:

    キャラクターということに関して、昔こんな話を読んだことがあります。
    ヨーロッパの近代文学の傑作におけるキャラクター、例えばウェルテル(『若きウェルテルの悩み』)、ジュリアン・ソレル(『赤と黒』)、ラスコーリニコフ(『罪と罰』)等は小説のキャラクターという枠を越えて、ある種の人間類型の典型になっている、と。で、日本の近代文学でそれに該当するのは『坊ちゃん』くらいで、むしろ歴史人物の中にそれが多い、と。
    人間類型うんぬんはともかく、ここに伊藤氏のいう「キャラクターからキャラへ」を理解する補助線があるのでは。例えば「信長」「秀吉」「家康」の三者は、戦国時代という枠を越えて、よく現代の産業界や政界の人間関係に置き換えられるし、「新選組」のキャラクターも、しばしば幕末という枠を越えて、現代の学園マンガなどに登場する。ガクランとかブレザー姿の沖田総司や土方歳三…これは例えば「どっかの異世界の国王=アキラ、騎士=ヒカル」という設定の同人漫画と同列のものではないか? これが「キャラ」化ではないか。で、それが90年代以降、漫画界で大規模に起こった、と。つまり「キャラ萌え」とは、ウェルテルの真似をして自殺者が続出した18世紀ドイツの日本バージョンである! というかまだまだ甘い!と。
    伊藤氏の著作を読んで一気にここまで考えました。これがいくらかでも当たっているのかどうかは分かりませんが、とにかくインスパイアされました。

  17. 坊や哲 より:

     いがらしさんの記事は読んでいませんが、文芸のほうでも「物語批判」が流行ってたし、それが波及したんでしょうか。
     物語の徹底化を図ってその限界性を表わしてみせ、なおかつ娯楽としてもハイクオリティな作品といえば『さるマン』は避けて通れないと思うのですが(しつこくすいません)。

  18. レタス より:

    はじめまして。いつも楽しく拝見させていただいてます。
    私は伊藤氏の著作は未読なのですが、たけくまさんのレビューを読んでふと思ったことがあるのでコメントさせていただきます。
    「マンガはつまらなくなった言説」の要因としては、マンガ表現や読み方の変質と並んで、
    「マンガを読む」という行為に対する社会的意味付けの変化も挙げられるのではないでしょうか。
    つまりマンガがカウンターカルチャーとして存在し、大学生がマンガを読むことが何らかの意味を持っていた時代状況が、
    当時の読者にマンガをより面白く感じさせていたのではないかと。
    別の言葉で言えば「親に隠れて読むマンガほど面白いものはない」ということです。
    見当違いの指摘でしたらすみません。
    (4)も楽しみにしています。

  19. Aa より:

    '80年代の中ごろよりまんががもはやアングラ文化ではなくなっていたことがなにより大きいと私も思っております。

  20. syuu より:

    私の母はいまだに
    マンガ読んでると「マンガなんか読んで・・」とくる。
    勘弁してほしい。

  21. 大樹 より:

    現在三十代後半の僕の漫画遍歴を辿ってみますと、
    小学生の頃、ドカベンやガキデカを愛読。クラスメイトと同様普通に漫画を面白がって読む。
    中学、高校時代、自我に目覚めてから大友克洋や高野文子などのニューウェーブ漫画にはまる。それまであった“漫画の記号絵”をここまで切り取っても漫画として成立する驚き、思わせぶりなストーリーに新しさを感じていたのだと思う。今思えば浅はかだが、この頃(八十年代)の僕は池上に代表される“劇画”は消滅してゆくのではないか…?などと考えていた。わざわざ斜線で画面を暑苦しく汚さなくても、大友や上條のようにライトなトーンワークでリアルな物を表現することが可能になったと思ったからである。”リアルな
    絵”がそれまでの劇画とは違うタッチで表現された事に対する衝撃は、当時ガキだった僕にはなぜだかとっても大きかった。
    社会人になり、そろそろマイナーなものにも飽きて、再度メジャーな物も読み始める。この時点であらゆるジャンルの漫画を読み尽くしていた僕が求めていたのは相変わらず“新しさ”だったと思うのだが、九十年以降、絵、話共に新しさを感じさせる漫画表現はあまり見受けられなくなった。(ような気がした。)これは一つの
    長く継続してゆく文化の宿命なので仕方ないと当時は思っていたのだが、単純に僕個人の精神年齢の問題だったのかも知れない。漫画に新しさを求められなくなって以降、逆に過去のノスタルジー、つげ義春などのどこか懐かしく古びないタッチのものを再度読み始める。その時代に読む漫画としてはこちらの方が新しいと感じていたからなのだろうか。
    そして今現在のネット世代、コンピューター世代において、僕の見えない所で新しい表現は生み出されつつあるのだろうが、僕自身そのあたりの感覚が鈍くなり、はたまた興味が無くなってしまい、下の世代の衆が”これ新しいよ!”といって持って来る漫画を読んでも、そこには喜びを見いだせない。体力、集中力が落ちているのかもしれない。現在も漫画は読み続けているが、どちらかというと僕が好んで読むものは大量生産ではない作者ひとりの思い込みが爆発しているような漫画である。数年前、井上雄彦が斜線の多い古典的でなおかつ新しい劇画を引っさげ登場し、それが瞬く間に広がったとき、所詮自分は時代に流されてるミーハーだったのだなと強く恥じた。
    結局僕が長い間漫画に求めていた物は、常に新しい何か(あくまで自分の尺度)が出て来た時の興奮だったように思います。そこをはぎ取って考えればいつの時代も漫画はそれなりに面白く、一定したレベルを保っているのではないでしょうか。

  22. えむ より:

    >仁さん
    の意見を読み素直にそういう見方もあるなと思いました。
    漫画も
    ファッションが大きい波でくり返されてる様に見えるのと同じような、
    時代とともにある波が出来てきたということでしょうか。
    まずはいつの波に乗り込んだか、と言う違いで、何を新鮮とするかが明らかに違ってきた。
    人間はやはり環境の生き物ダナァ、、、なんて思ったり。。

  23. 長谷邦夫 より:

    「マカロニ~」「天才~」が今の若い
    人には面白くないだろうという考え
    かたが平凡ですね。
    伊藤剛さんの本はギャグ論では
    ありませんが、よく読めば「のらくろ」も
    杉浦茂も「サザエさん」も、今でも面白い
    ということがわかるはずです。
    今のわかものをバカにしては」だめですよ。
    もっとリテラシーを持った若い人が出てくる
    のは間違いないのです。
    それは少数かも知れない。
    大勢は面白くないはず~という
    表層のみの考えは、芸能・音楽の
    新しさ・古さ、もう聴かない・見ない
    だろうと同列の考え方になってしまう。
    伊藤さんの本は、そうした点についても
    鋭いメスが入れられているように、ぼくは
    感じています。

  24. トロ~ロ より:

    ↑ そういえば小学生時代に、復刊された「のらくろ」を叔父さんが買って来て、読み耽った覚えがあります。同時期に、創刊間もない「少年ジャンプ」も読んでいた訳ですから、何であっても面白ければ読んでいたのですね。
    「若い」ということは時代性も超越して「目新しい」と感じるものを、どんどん吸収できる力があるということですね。

  25.  本妻のところへ帰るだなんて、竹熊センセのい・け・ず。よっ、後家殺し。

  26. 哲夫 より:

    伊藤バカの本買っちゃうか

  27. どっこい より:

    当時、ぼのぼの は衝撃でした。
    (1)4コマまんがの形式でありながら大河ドラマ(隠された豊かなストーリー性)を感じさせることが可能だったのか!=少ない情報量が、かえって想像力を逆に刺激する。
    (2)起承転結の約束を超越した物語性がある=まさに日常そのものおもしろさを、可愛いキャラで非情に描くことは可能である!ことを大胆に実践。
    (3)オーバーアクション(過剰)が当然のマンガという形式の常識を真っ向から否定する手法でもじゅうぶんに面白いことが明快に!=ドラゴンボールに代表されるマンガに対するラジカルで徹底したアンチテーゼ。
    といったところです。
    今思えば、「ストーリー」「キャラクター」どちらの手法もまとめて徹底破壊したのが「ぼのぼの」だと思えてきましたが、過剰な評価でしょうか?
    吉田戦車やしりあがり寿らのトレンドも、ぼのぼのが切り開いた地平上にあるような気がしてきました…。

  28. レポレッロ より:

    >逆に「天才バカボン」や「マカロニ・・・」等はいまの若い人には笑えないマンガだと思います。
    >つまり「マンガは面白くなっている」とも言える訳です。
    ギャグマンガの場合は、あくまでなま物なので今でも笑えるかとというと難しいものがあると思います。ただ今の若者が読んでもそれなりに新鮮で面白いと感じるとは思いますね。
    あと「がきデカ」や「BJ」にしろ当時のかなりの大人のマンガファン(今と違って高年齢のマンガファンは少なかったですが)も、小中学生も同じ様に面白がっていたのです。
    だから傑作としていまだに評価されてるのでしょう。
    しかし今のマンガが若者のファンだけに受けても大人世代がつまらないと感じているとすれば、時代が違うからとか我々世代がオッサンになって流行に乗り遅れてるだけという事では説明出来ないと思いますね。
    >つまりマンガがカウンターカルチャーとして存在し、大学生がマンガを読むことが何らかの意味を持っていた時代状況が、
    >当時の読者にマンガをより面白く感じさせていたのではないかと。
    それ以前はともかく70年代以降は大学生や大人がマンガを読んでもそれほど奇異な目で観られる事は無かったと思うんですけどね。

  29. 匿名 より:

    う~んムズカシイ。たけくまさんの言う、「ストーリー主義者」による「キャラクター主義」への嫌悪感、というのは商業主義への嫌悪感と捉えてもいいのでしょうか。
    たとえばドラゴンボールは「人気があるがゆえに」キャラが物語中に存在する理由が無くなっているのにもかかわらず続いたことに対する腹立ちであったと。
    ドラゴンボールにせよ北斗の拳にせよ、リアルタイムで読んでいた世代でも「終わり時」に関してはいろいろ意見がありましたが・・・。
    しかし単に「表現物から商品」へとマンガが変わってしまったという話ならば、テラさんが筆を折ったというエピソードを思い出して、その時点でもうマンガ業界はそうなっていたような気もするんですが・・・ああ難しいな。
    とりあえず続きを待つしかないかなぁ・・・

  30. マロー より:

    ↑ああ名前入れるの忘れてました^^;

  31. マロー より:

    む、自分で書いててふと思ったのですが、ひょっとしていわゆる「トキワ荘」の先生方は、テラさんのことが心の隅にあり、「自分の中で物語の終わりどころを心得ていた」のかもしれないと妄想してみたり。
    つまり商業主義的な作品作りではあるものの、そのために「物語を破壊するところまでは商業主義に付き合わない」という心の中の不文律があったのではないかと思ってみたり。
    しかし近年のマンガは編集部の意向があまりに強くなりすぎて、作品の終わりどころを「人気」に拠りすぎて、それがいわゆる手塚世代にとってはどうも不愉快だ、と。
    すいません、勝手に妄想してしまいました。
    最近のマンガでも、その潔さを感じる作品はあるんですけどね・・・ルサンチマンとか。

  32. たけくま より:

    >マローさん
    いや、実際はそこまで単純なものではありません。私は何もキャラクター主義が悪いと言っているのではないのです。話をわかりやすくするために、少し単純化しすぎてしまったのかもしれません。エントリもまだ先がありますので、しばらくお待ちを。
    仕事が詰まっているので、エントリの続きは週末になると思います。(別の軽い更新はするつもりですが)

  33. マロー より:

    わかりました^^;どうもストレートに受け取りすぎたようで早とちり申し訳ありません。
    エントリの続き楽しみにしています。
    お仕事頑張ってください。
    ああ、それにしても漫画もアニメもゲームも飽食の時代ですねぇ・・・ある程度の”飢餓”があったほうがいいんでしょうかねぇ・・・

  34. ぼぼぶらじる より:

    すこし、伊藤さんの説とたけくまさんの説との違いを分かりやすく強調した方が読みやすいかもしれませんね。
    一方で、メモですので多少まとまりなく雑感をダラダラ赤裸々に書き流すのも面白いんでありかと。
    わたしはぼのぼのは、いわゆる不条理漫画のハシリと見ています。
    笑いというのは、普段識域下におさえてる感情の暴発だと考えてるんですが。
    これは柔道の「崩し」のようにちょつとした心のバランスを崩すことで
    起こせる。
    その内の一つの典型的なやり方が「予想を裏切ること」であり「ナンセンス」だと思うのですね。
    「物語」というのは意味の連続性ですから秩序だった言語的意味の構成である「ロゴス」の世界です、一方で笑いのナンセンスやギャグというのは「非ロゴス」の理不尽な世界につながっている。
    まあつまり、
    第一に、
    ギャグ(漫画)というのはストーリー漫画に真っ向から対立するベクトルを内在している。
    第二に、
    ギャグの非ロゴス性を推し進めた先が不条理漫画に行き着くんじゃないか。
    第三に、
    そういっても「ぼのぼの」や「戦え軍人さん」なんかにも一応ストーリーはある。
    これはストーリー漫画じゃないのか?
    ストーリー漫画ってナンなのか?
    などと考えます。
    結局、ロゴスを積み重ねたストーリーの目指す先の感動も感情の暴発・開放やカタルシスなのですが、違いがあるとすれば笑いは短期決戦なんですね。
    これは非ロゴスのキャラクターの可愛さや、おかしさ、性的な萌えなどの世界にも当てはまるかと。
    連載を長引かせるためにキャラに頼るようになるのは、つまり、息切れしてきてストーリーという長期決戦の大技が出せずに、非ロゴスの快楽を与える小技でつないでるに過ぎないような気がします。
    技としては両方出せた方が良いのですね。
    しかし、私にとってのロゴスと非ロゴスの原理的対立は漫画が面白くなくなったとある人々が言うのと必ずしも連動しないと思います。
    もともと両要素ありましたから。
    なんか別の要因があるんじゃないかなあと。
    また、無駄に長い例といえば、野球漫画はしばしばそうかと。水島の「どかべん」や「アストロ球団」、一試合を何年かけてるか考えれば・・・
    ストーリーというより迫力や心理描写、引きだけで永遠と続く・
    そのへんにも手塚がスポーツ物を描けなかった理由もある気がします・
    でもソレを理由に名作でないというのも妙な話かと。

  35. 坊や哲 より:

    『のらくろ』に例を挙げることができるように、
    キャラクター主義への移行=権利ビジネスの台頭も顕著になってきたと指摘できると思います。

  36. Aa より:

    >ギャグマンガの場合は、あくまでなま物なので今でも笑えるかとというと難しいものがあると思います
    その点パタリロは凄い

  37. 坊や哲 より:

    奇面組もすごいです!

  38. 杜一 より:

    『ぼのぼの』連載開始は1986年ですので、「不条理漫画」のはしりだという見方はできないと思います。これを「不条理まんが」の嚆矢と見るにはまだいささか抵抗がありますが、吾妻ひでお「不条理日記」は1978年執筆です。
    >ギャグマンガの場合は、あくまでなま物なので今でも笑えるかとというと難しいものがあると思います。ただ今の若者が読んでもそれなりに新鮮で面白いと感じるとは思いますね。
    ギャグマンガが「あくまでなま物」で、「それなりに新鮮」な面白さしか「今の若者」が享受できないという考えはどういった根拠によるものでしょうか。流行っていた風俗やギャグマンガの流れを正確に汲んでいる「当時の読者」こそがもっともそのギャグマンガ読者たりえるというお考えのもとなのでしょうか。しかし「読み」というものはあらゆる世代においてその差異を論じることはできても、その優劣を問題にすることは無意味だと思います。「それなりに」という言葉には優劣を意識したニュアンスが伺えました。
    私は成人したばかりのいわゆる「今の若い人」と呼ばれるような年齢ですが、「天才バカボン」「奇面組」「パタリロ」「猿飛佐助」「ロボット三等兵」「マカロニほうれん荘」「ぼのぼの」「パイレーツ」などのギャグマンガをゲラゲラ笑いながら読んだ記憶があります(しかし「がきデカ」「喜劇新思想体系」「月とスッポン」などはまだちゃんと通読できていないからかゲラゲラとは笑えませんでした)。
    マンガが連載されていた時代とそれを読む人間の生きている時代の差がなんらかの断絶を生むことは間違いありませんが、「今でも笑えるかどうか」「今の若い人が笑えるかどうか」で過去のギャグマンガの価値を論じてしまうのは乱暴のように思えます。確かに「笑えない」という事実は本来ギャグマンガを否定するに値するものであることは間違いないのですが、それだけを価値基準にするのはどうでしょうか。
    「今」であるとか「若い人」といった曖昧で各人によって定義が違うものに拘泥しているうちには、進展はないように思えます。定義できればよいのですが。

  39. STEHH!! より:

    マンガの物語の長大化について、数年前に一部で話題になった時にジャンプのデータで検証された方がいました。
    http://shaka.pobox.ne.jp/book/st/comic_jump.htm
    何かはっきり結論が出てるわけではないんですが、こういう検証は面白いと思います。

  40. にゃ より:

    私も「マカロニ」を始めて読んだとき、どこが面白いのかさっぱりわかりませんでした。
    でもリアルタイムで読んでた人にはバカうけなんだよね。
    「サザエさん」は連載当時は毒のあるマンガだったて、祖母が言ってました。
    今の「となりの山田くん」(ののちゃん)的存在だったのかなあ??
    思うに、マンガが衰退したというよりは、興味あるものが今の若い世代には沢山ありますよね。
    だから、マンガ以外の世界で活躍しちゃうんでないですか??
    今の小説とかって、マンガぽいし。

  41. レポレッロ より:

    >ギャグマンガが「あくまでなま物」で、「それなりに新鮮」な面白さしか「今の若者」が享受できないという考えはどういった根拠によるものでしょうか。
    >流行っていた風俗やギャグマンガの流れを正確に汲んでいる「当時の読者」こそがもっともそのギャグマンガ読者たりえるというお考えのもとなのでしょうか。
    なんか非常に誤解されてますが、そうではなくてもっと単純な話ですよ。
    ストーリーマンガというのは物語の骨子が、問題なのだからマンガの中で描かれる風俗が古びてもそれなりに楽しめますよね?自分も自分が生まれる前のマンガでも面白いですしね。
    でもギャグマンガの場合は、多くの場合はその当時の流行語やその時代ならではのディテイルに負う部分が非常に多い訳です。分かり易い例でいえば、CMの流行語とかアイドルや有名人とか歌とかね、モノマネでも元ネタが分からないのも出てくるでしょう。それに加えてギャクというのはドンドン過激になっていきますから、昔の笑いは段々ぬるくなってしまいます。
    だからやっぱりどんなに傑作ギャグマンガでも当時と全く同じにはおかしくはないのですよ。
    ギャクマンガに限りません。コメディというのは全部ナマ物なんです。それはもう仕方ない事です。
    チャップリンやキートンでも当時の観客はそれこそ大爆笑してたんですから。
    でもただ優れたギャグマンガなら(チャップリンの映画がそうであるように)単純なギャグ以外の部分でも、今の若い読者をも牽きつけるものがあるだろうと。そういう意味で「今の若者が読んでもそれなりに新鮮で面白い」だろうと書いたわけです。
    俺らオッサン世代のマンガ読みの方がギャグセンスあるよ、などと言う気は毛頭ないですよ。

  42. 杜一 より:

    ご返答ありがとうございます。
    >ギャクというのはドンドン過激になっていきますから、昔の笑いは段々ぬるくなってしまいます。
    >だからやっぱりどんなに傑作ギャグマンガでも当時と全く同じにはおかしくはないのですよ。
    >ギャクマンガに限りません。コメディというのは全部ナマ物なんです。それはもう仕方ない事です。
    「ナマ物」であることはそう思います。しかしそれを「もう仕方ない」ものであるとすることについて、私は異論があります。
    若いか若くないかという言葉をもう少し普遍的にすれば、知識や価値観の有無でギャグへの理解度が変化するということですよね。
    私は当時の読者とまったく同じ読み方はできませんが、当時の風俗やマンガの状況、それこそ流行語などを知ることはできると思いますし、それによって当時の読みに現在の私の読みが限りなく近づくことは可能だと考えています。例えば古くに作られた映画や中古文学、洋楽などにもあてはまると思います。(昔のマンガを読むためには昔の風俗などを熟知した上で読まなければならない、現在の読み方で享受してはならないと言うわけではありません。)そしてそれは「生もの」を蘇らせる「読み」を生むことになるでしょう。
    レボレッロさんは、当時のマンガを読む上での知識や価値観の取り入れが、時間の経過によって困難になっていく、そうすると自然と無理解の幅も増えていく、という点そのものに問題点をおいているとみてよろしいでしょうか。それによって生じる「読み」のズレについての認識が、私とレボレッロさんで異なっているのだと思いました。
    もし読み間違えていたら申し訳ありません。長文失礼しました。

  43. クッキー より:

    ギャグマンガってやっぱり賞味期限があるような気がします.
    私は27ですが,5年くらいまえに初めてマカロニほうれん荘を読んだ時に面白いと思えませんでした.
    また,幼少の頃は奇面組やついでにどんちんかんなどを笑い声を抑えずに読むことが難しかったのですが,今読み返すとやはりそれほどそれほど面白くありません.
    時事ネタとか流行語には関係なくです.
    これは一昔前のコント番組を観るときも同じです.全員集合!やひょうきん族など,当時はゲタゲタ笑いながら観ていたものなのに今観るとあまり笑えないどころか逆に少し痛々しく感じてしまう.
    観ているのは同じ人間なのに,不思議なことです.

  44. ぼぼ より:

    >1986年ですので、「不条理漫画」のはしりだ>という見方はできないと思います。
    確かにそうですね。
    そういえば「不条理日記」はさるまんでネタに使われていたような。
    でも笑いのセンスがバブル期とチョツと違う気がするのですね。
    ぼのぼのの場合はそのまま現在のとつながってる。
    ぼのぼのが少し違うというのは確かだと思います。その辺、伊藤さんが挙げた例は間違いじゃないと思う。
    じゃあ吾妻ひでお「不条理日記」と「ぼのぼの」で何が決定的に違うのか?違わないのか?
    この辺はどう思われます?
    面白いですね。
    まあギャグ漫画が一番分析が難しい分野なんでしょうね。

  45. たけくま より:

    >壮一さん、ぼぼさん
    ギャグの文脈を離れるなら、不条理漫画の元祖はつげ義春の「ねじ式」です。つげはその後「コマツ岬の生活」「ヨシボーの犯罪」「必殺するめ固め」など、「夢の作品群」と呼ばれるシュールリアリスム漫画をいくつも執筆しますが、これらはギャグ漫画として読むことも可能で、吾妻や山上たつひこ、吉田戦車などにも多大な影響を与えています。
    吾妻さん、山上さんはつげ義春の大ファンですし。「ヨシボーの犯罪」は70年代の作品ですが、まるで吉田戦車が描いたかのような漫画で、吉田さんから「この作品に影響を受けた」ことを僕は直接聞いています。

  46. 杜一 より:

    >ぼぼさん
    編集者のタイプによって最後のページを差し替えようとする場面ですね。あれは「不条理日記」(インド人だインド人だ)と「李さん一家」(二階にいるのです)を足して二で割った奴で、読んだ時ひっくり返った覚えがあります。
    「不条理日記」が現在に繋がっていなくて、「ぼのぼの」は現在に繋がっているという前提が私はわかりません。ぼぼさんも私もこれについては主観を表に出しているので堂々巡りになりそうな気がします。
    違いを一点挙げるとすれば、あくまでスタンスとして、
    ・無意識的か(『不条理日記』末尾の「自分でも何をかいているのかわからない」という記述)
    ・意識的か(『テヅカ・イズ・デッド』でも取り上げられたインタビュー)
    だと思います。
    >たけくまさん
    つげ義春については私も同意見です。吾妻ひでおが『やけくそ天使』でいちはやく「夜が掴む」を取り上げたり、などなど。
    「巨人の星」を大洗海水浴場しながら読んでいた人も当時いたんですよね。

  47. しろうと より:

    あまりマンガには詳しくない者のコメントですみませんが,素朴な疑問です.
    キャラクター主義について,「ドラえもん」はキャラクター主義ではないのでしょうか?
    ふと疑問に感じたので,お伺いできればとおもいました.
    「マカロニほうれん荘」は二年前に読んで大ファンになりました.細かいギャグはわかっていないとおもいますが,いきいきとした絵やストーリーに引き込まれてしまいます.周囲の大学生たちに貸してもそれなりに好評でした.こちらのコメントを読んで,リアルタイムの読者が感じていたおもしろさと,今読んで感じるおもしろさの一致(経年変化しない部分)と不一致(変化する部分)が興味深いです.

  48. レポレッロ より:

    >若いか若くないかという言葉をもう少し普遍的にすれば、知識や価値観の有無でギャグへの理解度が変化するということですよね。
    その後いろいろ考えましたが単純にそういう問題だけでもないように思います。ギャグマンガやコメディは先鋭なものであればあるだけより時代に根ざしてるものです。だからこそその時代が過ぎれば急速に笑えなくなるんでしょう。
    「マカロニほうれん荘」でいうならあのマンガは当時は単に面白いという以上に、いろんな意味で凄く斬新で尖がったマンガでした。それこそ「がきデカ」を一気に旧世代の作品と思わせてしまう位新しいマンガだった。
    頭ではマンガ史の位置付けやら風俗を勉強して理解しても、実際に当時どういう風に捉えられてたかを追体験する事は不可能でしょう。
    例えば初めて家にカラーTVが来た時のあのゾクゾクするような感覚は、その時を生きていた人間でないと到底理解してもらえないでしょう。私自身映画がトーキー映画になった時の人々の驚きは、本では読んでも本当の意味で理解する事は出来ません。
    いってしまえば「マカロニ」も当時はそういう衝撃があったんです(少なくとも自分にはですが)。ギャグマンガでこういう事がやれるのか、やってよかったんだ?!という大げさにいえば革命的マンガに思えました。もちろん部分的には鴨川つばめ以前にも似たようなギャグや絵を描いたマンガ家はいたでしょうが、あれほどの完成度と説得力でメジャー誌で表現したのは多分彼が最初だと思います。
    単純に笑いという意味でも全盛期の「マカロニ」や「パイレーツ」はお腹の皮が捩れる位猛烈に爆笑出来たマンガでした。あのマンガを読んで今の読者がそれ位面白がる事はもう無理でしょう。その後の(影響をうけた作品や亜流も含めて)膨大なギャグマンガを読んでしまった今、もう一度ウブな気持ちで読む事は出来ないんですよ。
    もちろん昔愛読していた自分ですら今はそんな風には楽しめませんからね。
    >私は当時の読者とまったく同じ読み方はできませんが、当時の風俗やマンガの状況、それこそ流行語などを知ることはできると思いますし、
    >それによって当時の読みに現在の私の読みが限りなく近づくことは可能だと考えています。
    >例えば古くに作られた映画や中古文学、洋楽などにもあてはまると思います。
    失礼ですがそれはあまりに楽天的な考えではないですか?
    知識を幾ら集めても真の体験ではないし、その時代の空気というものを後世の人間が実感する事はとても出来るものではないでしょう。
    ギャグマンガに限りませんけどね。ゴンさんがキャラクターの代表として挙げられている「若きウェルテルの悩み」なんて今では牧歌的な恋愛小説の代表ですが、発表当時は主人公をマネをして自殺する人間が続出し発禁されるくらいショッキングな小説だったんです。
    でもいくらドイツ語が堪能だろうが当時のドイツの風俗を徹底的に研究しようが、今時の人間がゲーテを読んで自殺するほど感化されるなんてのは不可能でしょう?
    ただし(自分は読んでないですが)そういう一過性の流行以上のものがあるからこそ「ウエルテル」は名作として後世に残ってるんでしょう。
    同じく「マカロニ」もたとえ当時のように笑えなくても傑作だと思ってますよ。ギャグマンガといえども、笑うという以上の楽しみ方面白がり方もありますしね。

  49. 『新宝島』の「映画的手法」についての一考察

     話題の『テヅカ・イズ・デッド』(伊藤剛/NTT出版/2005年9月刊/2,520円)を読んだ。  読み始めたら仕事にならないだろうな……と予測していたが、まさにその通り。実に刺激と示唆に満ちた本で、途中で読むのをやめられなくなった。このような本に熱中するのは、マンガを描かなくなってから、なぜかマンガ表現というものに対するこだわりが強くなり、夏目房之介氏の著作などを読みふけるようになっていたせいで……

  50. 杜一 より:

    「真の体験」「本当の意味での理解」といった語は具体性を持ちません。ですので、追体験に対する「実体験」、「当時とまったく同じ状況においての体験、理解」をあてはめるとするならば、決して追体験と同一にはなりえないことは私も同意します。しかしそれは、「当時の読みに現在の私の読みを限りなく近づけること」を絶望視させ、否定するものではないと考えています。
    ところで「当時とまったく同じ状況においての体験、理解」「実体験」というものは、一でありえないという側面を考慮せねばなりません。『若きウェルテルの悩み』で自殺した人間と、自殺しなかった人間がいたように。
    「理想的な読み」というものが存在し、規定できればよいのですが。

  51. ぼぼ より:

    >たけくまさん
    ありがとうございます。
    系統的にはそうでしょうね。
    わたしもつげ作品は好きなんですが、
    ギャグ漫画としては、読んだことはありませんでした。確かにナンセンスをギャグとして読めないわけでもないですね。
    しかし、はて、シュール(超現実主義)と不条理は同じものなのでしょうか?
    私自身、我妻といがらしの間にはバブルをはさんで決定的な違いが有るように感じるのですが、単なる自分の主観なのか、きちんとした言葉が見つかれば言葉に直して分析できるもので自分の思索が足りないだけなのか判断つきかねています。
    たけくまさんは、(仮に)ぼのぼのがそれまでの不条理漫画に新しい要素を付け足したとすれば一体なんだと感じられますか?(お暇があれば
    伊藤がそういってるだけでターニングポイントじゃないと思うというご意見もありなのですが。
    わたしにとってぼのぼのはやっかいな作品なのですね。面白いとは感じるのですが。
    私的にはストーリーらしきものもあるんですね。
    >杜一さん
    主観的な意見が聞きたかったのです。
    私の場合、違和感や納得できないという感覚が出発点としてあって、
    それを納得させる理論を煮詰めていくので、他人の感覚の問題というのは
    私的には主観的でも結構重要なのです。
    自覚的、無自覚的は私も考えたんですが結局創作というのは意識的活動だと
    思います。
    ブルトンのオートマテック・エクリチュールに対する批判じゃありませんが。
    レボッロさんの意見は私にはごく常識的に分かりやすいのですが。
    今の20代前半の若い人は70年代リバイバルや80-90年代の残滓も重層的にあって、
    時代の変遷が分かりにくいんじゃないかな。
    これも飽和的な今の世相なんですよ。
    70年代漫画のリバイバルはパッケージされなおしてるのでそのものじゃないんですよ。
    時代を超えたエートスのようなものもありますが。
    単なる世代の差かな?

  52. 杜一 より:

    >自覚的、無自覚的は私も考えたんですが結局創作というのは意識的活動だと思います。
    「あくまでスタンスとしての意識的、無意識的」と私は書きました。創作が意識的活動であることを前提としています。
    世代の差、時代の変遷、今の世相に対する無理解というよりは、ただ私はそういったものによって起こる主観をなるべく排除しようとしているだけです。私は前回のコメントでレボレッロさんの意見そのものを否定したい、とうてい理解できない意見だ、と言ったわけではありません。じじつ私も同じような思いで「コロコロコミック」や「ジャンプ」や「ガンガン」を見ているわけです。しかしそれに安住したくない、していていいのかという思いがあるのです。だからこそなぜ今のマンガを、(そして昔のマンガを)私はこのように見るのかを考える際に、より建設的な態度をとりたい、というだけなのです。これは、これまでの「今のマンガへの無理解」に対する価値観と相対するものであるという自覚があります。またこれが20代前半の人間の持つ共通の価値観ではないこともあわせて注記します。
    >70年代漫画のリバイバルはパッケージされなおしてるのでそのものじゃないんですよ。
    そのものでないことはなんら問題にはならないと思います。私は「そのもの」を求めていることに間違いはないんですが、「そのもの」をいま得ることが出来るかについては、出来ないものであるということには同意しているのですから。
    「そのもの」を手に入れることと、「そのもの」を求め、なるべくそれに近づこうとすることを同じであると勘違いしているわけではありません。

  53. 赤塚不二夫センセイ的「キャラ」の考察

    『テヅカ・イズ・デッド』を読んで一番おもしろかったのは、やはり、「キャラクター」と「キャラ」のちがいについて。5月から6月にかけて早稲田大学エクステンションセンターで開催されたマンガ表現についての講座でも、伊藤さんのキャラとキャラクターに関する解説があり、なるほどと膝を打ちながら講義を聴いていたが、本でまとめて読むと、さらに伊藤さんの言わんとしていることがよくわかる。  本書を読んでも同じ感想を持……

  54. 赤塚不二夫センセイ的「キャラ」の考察

    『テヅカ・イズ・デッド』を読んで一番おもしろかったのは、やはり、「キャラクター」と「キャラ」のちがいについて。5月から6月にかけて早稲田大学エクステンションセンターで開催されたマンガ表現についての講座でも、伊藤さんのキャラとキャラクターに関する解説があり、なるほどと膝を打ちながら講義を聴いていたが、本でまとめて読むと、さらに伊藤さんの言わんとしていることがよくわかる。  本書を読んでも同じ感想を持……

  55. ぼぼ より:

    うーん。
    それなら、
    その純粋により近い認識がなぜ可能であるのかの立証と、
    それに至るための必要な方法論の具体的な提示が実例とともにないと中身のない議論ですね。

  56. 太田 より:

    80年代後半に小学生だった私にとって、
    90年代に入って「巨人の星やあしたのジョーは素晴らしかった
    それに比べて今の漫画のくだらなさといったら・・・」
    とか言うおっさん(当時)連中は嘲笑の対象でありました。
    そして、90年代後半に入り、ジャンプが衰えた頃、
    「昔のジャンプは良かった。それに比べて今のジャンプのくだらなさといったら・・・」
    と私と同年代の連中が言う姿に愕然とした記憶があります。

  57. 「ぼのぼの」と「アメコミ」の共通点

    たけくまメモの「伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(3)」にインスパイヤされた

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