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2005年10月9日

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(4)

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Amazon.co.jp:本: テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へテヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

 続きを書こうとまごまごしている間に、あちらこちらで『テヅカ・イズ・デッド』の感想がアップされはじめているようであります。ことにすがやみつる氏のブログ「すがやみつるの雑記帳」では、『テヅカ…』の「キャラ論」について、先に感想を書かれてしまいました。今回の当エントリの内容とかなりダブるのですが、めげずに書くことにします。すがや氏のブログはマンガ表現・マンガの歴史について自らの経験をもとにした非常に有益な内容が書かれているので、ぜひ一読をお勧めします。

http://www.m-sugaya.com/blog/archives/000256.html

(3)「キャラ」と「キャラクター」の分別・1

以上の考察を経て、伊藤はいよいよ、マンガにおける「キャラクター」の問題へと論旨を進めていく。第三章「キャラクターとは何か」がそれで、本書の中核といえる部分だ。これからその部分を紹介するが、正直、かなり高度な議論を要求する微妙な領域の話なので、竹熊の理解不足のところがあるかもしれない(あったら、ご指摘をお願いしたい)

従来のマンガ表現論では、マンガの基本構成要素として「絵」「コマ」「言葉」に分別されることが多かった。しかし伊藤は本書でこれを「キャラ」「コマ」「言葉」に分別する。通常の読者心理として、マンガを読むということは、ただ絵を見るというより、「キャラクターの行動」を(感情移入しつつ)追っていく、という意味合いが強いからである。

ただし伊藤も断っているように、この場合は背景や形喩(漫符)などが考察の対象から外れてしまう。それらもマンガの重要な構成要素である以上、いっそのこと「絵」「キャラ」「コマ」「言葉」の四要素に分別してもいいかもしれないが、ここでは伊藤の区分に沿って読み進めることにする。

さて、伊藤の「キャラ論」のユニークなところは、「キャラクター」と「キャラ」を概念的に使い分けていることである。簡単に違いを書くなら、「物語」「背景設定」を必要とするものが「キャラクター」であり、それらを必要とせず、ただ図像的要素のみで成立しているものが伊藤の言う「キャラ」ということになる。これは「絵」を使うマンガだからこそ可能となる分別である。

《現在では一般に、「キャラクター」とは「マンガ(やアニメなど)の登場人物」のことだと考えられている。ことマンガの場合は、ほぼ「登場人物」と同義にとらえられているといっていい。マンガ原作者である小池一夫の言葉でいう「キャラクターが立つ」とは、この意味である。一方、「キャラ」とは、たとえば「ハローキティ」のような簡単な図像で作られているものをイメージしてもらえればわかりやすいだろう。(中略)

マンガの「キャラクター」においては、この両者の特性が重なり合っている。その重なりとは、「キャラ」というものの成立の上に、「キャラクター」を表現しうるようになっていると考えられる。そして、これらの実は別レヴェルで考えられる事象が一体になっていることが、現象を見えにくいものにしている。こと「キャラクター」についての議論となると、話がかみあわなくなったりするのは、おそらくそのせいである。「キャラ」と「キャラクター」を使い分けているのは、第一にその理由による。》
(伊藤『テヅカ・イズ・デッド』p88)

つまり『子連れ狼』の拝一刀などの「物語の登場人物」が「キャラクター」である一方、伊藤が例に出したハローキティなどは「キャラ」である。さらに例を挙げればモナー・ギコ猫などのAA(アスキーアート)も「キャラ」といっていいだろうし、前エントリのコメント欄で長谷邦夫氏が例示した赤塚ギャグにおけるケムンパスやニャロメ(の初登場時)も、伊藤的分類では「キャラ」になる。すがやみつる氏がブログで指摘した手塚マンガにおけるヒョウタンツギももちろん「キャラ」である。

∧_∧ ←モナーは物語を前提としない「キャラ」である。
  ( ´∀`)
(    )
| | |
(__)_)

キティなどの商品先行型キャラやモナー等のAA、ケムンパスやヒョウタンツギなどの「落書きキャラ」は、その成り立ちにおいて物語を前提としていない。キティのアニメ映画や、2ちゃんのAA板などにはモナーを使った連続ストーリー作品までもがあるが、そこでの「物語」はあくまで「後付け」のものだ。キティやモナーは、はじめに「キャラ図像」ありきなのである。

そして、こうした「キャラ」に「テクスト(または、物語)」が与えられると、それは「キャラクター」になるというのが伊藤の考えだ。その意味では、「キャラクター」も本質部分はあくまで「キャラ」なのだが、それが「キャラクター」になったとたんに、本質である「キャラ」の部分が見えなくなる(隠蔽が働く)というのが、伊藤の論旨である。これについては、後でより詳しく紹介する。

本来「キャラクター」とは、人間の「性格」や「人格」を意味する英語である。これが物語の文脈で使われる場合は「登場人物」の意味になる。小説やマンガなどでの登場人物は、その前提として「物語」が必要になる。「キャラ(クター)を立てる」という言葉は、70年代に原作者の小池一夫が提唱してポピュラーになったが、ここでのキャラクターは、もちろん「物語の登場人物」の意味だ。

小池の「キャラクターを立てる」とは、あくまで物語の存在を前提とし、物語をより面白く読ませるために、「登場人物」を魅力的に特徴づけるということである。たとえば「乳母車に子供を乗せて人を斬る侍」(『子連れ狼』)とか「人を殺した後、必ず涙を流す殺し屋」(『クライング・フリーマン』)などの小池キャラクターは、その設定を聞いただけで、読者は強い興味を惹かれるだろう。そこには強い「なぜ?」が含まれているからだ。

「なぜ、この侍は幼児を連れて危険な旅をしているのか?」「なぜ、この男は殺しながら涙を流すのか?」など、「なぜ?」の中に、すでに物語の芽が入っているのが小池キャラクター術の特徴である。「なぜ?」によって読者は、キャラクターの過去(どうして、彼はそうなったのか?)に強い興味を抱き、同時にこれから語られる物語の展開に強い期待感を抱くことになるからである。

ただストーリーマンガを語る際はこれでもいいのだが、視点を変えると、キティやモナーのような「純粋存在としてのキャラ」は、小池のキャラクター論からは除外されることになる。いや小池だけではなく、これまでのマンガ論では、もっぱら「ストーリーの構成要素」としての「キャラクター」が語られるのみで、「純粋存在としてのキャラ」、伊藤のいう「キャラ=プロトキャラクター」が語られることはまず、なかったといっていい。

しかし現実のマンガ論議においては、明確な弁別がなされぬまま、「キャラ」と「キャラクター」が一緒くたに語られることが多いのである。そして伊藤から改めて指摘するまで、その「混在」にわれわれは気づいていなかったのではないだろうか。

いや、気づいてないというより「知ってはいても、気にしていなかった」というのが正しいだろう。普通われわれが「マンガ」というとき、ほとんどの場合、無自覚的にそれは「ストーリーマンガ」であることを想定している。そこで語られる「キャラクター」の魅力は「ストーリー」の文脈においてであり、「図像」としての魅力は、(ファンレベルで語られることがあっても)こと批評のレベルで語られることは極めて少なかった。ましてやヒョウタンツギのような直接ストーリーに奉仕しない「落書きキャラ」に至っては、「作家の余興」として片付けられることがほとんどだったのである。

ここで伊藤が明確に両者を定義しているので、引用する。

《あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。

 多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 一方の「キャラクター」とは、

「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

 と定義できる》(伊藤『テヅカ・イズ・デッド』p95)

ようするに、マンガの「キャラ立ち」にはふたつのレベルがあるということになる。(A)図像レベルでの「キャラ立ち」と、(B)物語レベルでの「キャラクター立ち」だ。(A)の意味での「キャラ」は、伊藤によれば、それと特定されうるデザインとともに固有名を持ち、「人格・のようなもの」を表象するものだという。

昔話や民話の登場人物には、特定の「人格」「性格」を表象するキャラクターが多い。しかもそれは、たいていの場合、お話の最初から最後まで変化しない(ゆえに、非リアルな存在である)。『白雪姫』に出てくる魔女は徹頭徹尾「嫉妬」の象徴であるし、白雪姫は純粋さの象徴であり、七人のこびとは「おこりんぼ」「てれすけ」といった特定の性格の象徴である(ただしこびとの性格設定はディズニーの創作)。こういった象徴的・本質的であるが非リアルな存在を図像レベルで表現したものが、伊藤のいう「キャラ」になるのではないだろうか(間違っていたら指摘してください)

そして、ストーリーマンガの「キャラクター(B)」は、あくまでも「キャラ(A)」を基盤としているものの、その構造はふだんは意識されないことが多い。『あしたのジョー』の矢吹丈も、線で描かれているという次元ではヒョウタンツギやケムンパスと同じ「キャラ」なのだが、現実にはこのふたつを同レベルで語る人はいない。矢吹丈は、あくまでも「物語」を背負った「キャラクター」として認識されるからである。

ここで重要なのは、物語を前提とした「キャラクター」であっても、それが「線で描かれたもの」である限り、「キャラ」の本質を失っているわけではないということだ。ただ普段のわれわれは、「物語」の中での「キャラクター」に接したときに、「キャラ」としての本質を無意識下においやっているのである。

ただし赤塚マンガを代表とする多くのギャグマンガでは、多くの場合はリアルな「キャラクター性」ではなく、あえて非リアルな「キャラ性」を前面に出す。ストーリーがそこにあったとしても、非リアルなキャラたちが、ストーリーを蹂躙し、破壊する(ことで、笑いをとる)のである。ギャグにはこうした傾向があるがゆえに、ストーリーマンガや劇画などとは区別されるのである。

※伊藤の「キャラ/キャラクター」の弁別は大変ユニークかつ重要な指摘なのだが、やはり一般には分かりづらいというか、混乱を招きかねない用語になっているように思う。なぜなら、「キャラ」という言葉の使われ方が日常会話においては「キャラクター」という言葉の短縮型にすぎず、両者は同じ意味で使われているからである。伊藤は「(物語を前提としない)キャラ」と同じ意味で「プロトキャラクター」という用語も本書で使っており、こちらのほうがより混乱が少ないとは思う。「プロトキャラクター」が言葉として長いなら、「純粋キャラ」「絶対キャラ」という言い方はどうだろうか。

(つづく)


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| コメント(92)

“伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(4)” への92件のフィードバック

  1. DEF より:

    伊藤氏のいう「キャラ」は象徴や一面的とは関係がなく、
    それが何であれ性格を持っていることが予想されるもの、
    むしろ大事なのはp116にある「異なった絵」が「同じ存在」として認識されること
    つまり違う絵がそれが何であれひとつの個性を持って認識されることにあるのではないでしょうか。
    (たとえばキティーはどのような「キャラクター」を表現しているのか)
    どのキャラも物語から独立して存在できるというのが
    (パロディーや二次制作の引き合いもありますし)
    この部分での肝かなと思ったのですがいかがでしょうか。

  2. たけくま より:

    ↑四方田犬彦の論を引用した部分ですな。「異なった絵」が「同じ存在として認識される」というのは、それが手描きである以上、同じ「アトム」を描いてもひとつとして「同じアトムの絵」は存在しないが、それでもアトムの特徴を備えているのでそれが「アトム」だと認識できるという意味ですね。伊藤はこれを「キャラ」の条件としています。
    ただ、ここでの私の紹介とは矛盾していないと思いますが。

  3. lh8 より:

    これは面白いなあ。
    漫画とは外れますが、我々の世代ですと「格闘ゲームのキャラクター」がいかにも伊藤剛で言うところのキャラだなと。そのキャラたちが何故コスプレで一番人気を博し、XMENなどの海外トゥーンキャラたちとやたら親和性が高かったのか、共通項が見えてきます。
    かなり色々な所に応用が利きそうな論でありますな。

  4. DEF より:

    すみません、読み違えてました。
    「こういった象徴的・本質的であるが非リアルな存在」というのは
    直前の魔女や小人をさすのではなくて
    白雪姫で魔女が小人がひとつの性格を示すように
    絵としてひとつの存在を示し続けるものということですね。
    ごっちゃにして、ひとつの決まった性格を表す絵が「キャラ」であると読んでました。
    おさわがせしてすみません。

  5. たけくま より:

    >DEFさん
    いやいや、僕自身も読み違いがないか、実のところヒヤヒヤしているのです。明日あたり、伊藤君から「竹熊さん、その解釈間違ってますよ!」と抗議の電話が来ないことを祈ります。

  6. 情苦 より:

     ディスニーと言えば、ミッキーこそ「キャラ」なのでは?
     物語はあるものの、多くの人はディズニーランドにいる彼を想像するでしょう。・・・しかしここで疑問なのは、ミッキーってちょっとサイコというか多重人格ぽくないですか?
     >>話や民話の登場人物には、特定の「人格」「性格」を表象するキャラクターが多い。
     日本の神話にも、ミッキーもとい特定の人格/性格を現しつつ、めまぐるしく性格の変わる神が多くいます。大学の先生からの又聞きですが「日本武尊」は西に行く時と東に行く時では性格が正反対だから作者が数人いるとか、思えばイザナキも死んだイザナミと愛し合ったと思えば憎しみあい、スサノオにも突然豹変する部分が見えます(あくまで古事記が前提ですが)。
     そんなアナーキーな奴ら・・・「いくつもの象徴・絶対キャラを所有しつつ非リアルな存在」もキャラなのでしょうか?それともキャラクターなのでしょうか?
     ・・・誤解や勘違いがあったらスミマセン。
    それにしても、人間の問題として展開しても深いテーマですね。

  7. 坊や哲 より:

    >キティなどの商品先行型キャラ
    図解レベルのキャラであっても、必ず物語が先行していての話であって、その逆ではないのではと感じました。2ちゃんねるのモナーでも、スレッドの議論を茶化す役割で、あるいは煽る役割で使われているケースが多く、物語の一定のキャラクターを演じている。
    したがって、私は伊藤さんの文章を読み、
    「すべてのキャラクターの中で権利ビジネスとして確立されているものがキャラである」と考えたわけです。

  8. 情苦 より:

     >>「すべてのキャラクターの中で権利ビジネスとして確立されているものがキャラである」
     権利うんぬんといえば、サザエボンとかいうのがありましたねww

  9. たけくま より:

    >情苦さん
    ミッキーはもちろん「キャラ」ですね。一応、物語の主人公でもありますが、「特定の物語」ではない。お話によって、消防士になったり飛行士になったり、工事現場に人夫になったりします。各エピソード相互のつながりは、特にありません。にも関わらず、誰もがミッキーと認識しうる外見と、性格を持っているわけです。
    このように、「キャラクター性」よりも「キャラ性」が全面に出ているという意味で、小池一夫のキャラクターとは一線を画します。拝一刀や大五郎が、まったく別の作品(たとえば『クライング・フリーマン』)に出演することは考えられませんから。
    ちょっと、今日は例の「吉祥寺アニメ祭」があるので、本日は更新もコメントもできないと思います。それでは、また。

  10. レポレッロ より:

    いつもつっこみで申し訳ありませんが、疑問に思うのはマンガのキャラを純粋キャラとキャラクターに区別出来るのか?という根本的な問題がありますね。
    マンガにはモッブシーンなどがあります。背景でもあり同時にキャラでもある。
    後<アバウトなキャラ>というのもあるんですよね。思いつく例でいうと「エロイカより愛をこめて」のエーベルバッハ少佐の部下のA、B、Cとか・・・初期の内はAとBがごっちゃになったりしてました。つまり<少佐の部下>という記号的には存在したわけですが、絵柄としての固定されたキャラではない。
    こういう微妙なキャラ(確かに使い方がややこしい!)ってマンガに非常に多いじゃないですか。<主人公の友達>とか<ライバルのとりまき>とか<職場の部下><サングラスの黒服のこわもて>等々・・・。
    しばしばそういう背景的キャラから出世してキャラクターに成長する事もありますしね。
    叉ヒョウタンツギみたいに純粋キャラとも言えるし、漫符とも見えないでもない微妙なキャラもいます。
    マンガにやたら出てくる変身ヒーロー物の場合、不動明という<純粋キャラ/キャラクター>とデビルマンとしてのソレと分節にして捉えるべきでしょうか?それとも不動明のキャラクターの一部としてデビルマン形態が存在するのでしょうか?
    単純にマンガの絵の中では不動明とデビルマンは別のキャラですよね、いかなる共通点もないです。
    で自分でも何言ってるのか分からなくなりそうですが(笑)結論をいうと、
    純粋キャラ(キャラ)=絵としてのキャラの属性
    キャラクター=ストーリー上のそのキャラの属性
    を、伊藤氏の場合、絵の中だけで規定し様とするから無理があるのではないか、という気がするんですが?
    以上、いまだに「T・I・D」が見つからないので(出版社さん増刷のチャンスですぞ!)、自分の誤解だったら申し訳無いです。

  11. 87分 より:

    >小池一夫
    小池一夫は絵を描かないし、またいわゆる「キャラを立たせる」ってのは文字のみの脚本段階で小池一夫らしさを発揮する手段でもありますよね。
    つまり作画担当のマンガ家によっては小池一夫作品発信の「キャラ」もありえなくもないのでは?と。

  12. たけくま より:

    ちょっと、ここで念を押しておきたいのですが、この一連のエントリで書いていることはあくまで竹熊の『T・I・D』解釈によるものだということです。
    たとえば僕は「物語」という言葉を使用していますが、伊藤は「テクスト」という用語をもっぱら使っている、という違いがあります。ここでの「テクスト」が「物語」とイコールになるかどうかは、厳密にはよくわからないところがあります。
    僕の問題意識に引きつけて読むと、「物語」としたほうが個人的にわかりやすかったということです。
    では、そろそろ外出します。

  13. たけくま より:

    >87分さん
    まさに、その部分こそが、原作つき作品におけるマンガ家の領分でもありますね。

  14. あぽちゃん より:

    実はこの議論が沸騰すると現場では非常に困った自体になると思うのですが?
    つまり、編集者は絶対「キャラクター」とは言わずに漫画家に「キャラ立てて」と、キャラとしか言わない慣習があり、漫画家が「青木さんキャラって、使い方が違いますよ?」と言えば、むっとして(こんな理屈っぽいやつは単行本出すのはやめよう)という顔をされてしまうのが落ちだと思うのですが~♪

  15. 坊や哲 より:

    テクストはロラン・バルトのタームで、
    物語は蓮實重彦のそれですが、
    このような「現代思想」用語を引っ張ってくる
    必要性はあるのかと、
    竹熊さんの書き込みをみて、
    根本的な疑問を提起したいと思います。

  16. 長谷邦夫 より:

    みなさんの論考、それぞれ面白いですね。
    それだけ、マンガ内の登場者が意味を
    持ち得る~これが、日本のマンガを高度な
    レベルにしているのでしょう。
    赤塚キャラの話しに後戻りしてしまいますが、
    「レレレのレー、おでかけですか~」の
    おでかけのオジサンは、手塚先生の描かれた
    「おむかえでゴンス」キャラが、発想の原点に
    あると、思います。
    そこに、杉浦茂センスを加味した、複合型
    キャラではないか。
    複合型といえば、ウナギイヌは、図像の複合
    ですが。
    7日の東放学園研究所での、大塚英志さんと
    のトークでは、伊藤論までとどくとこまではいきませんでした。
    たちまち2時間経過で、質問タイム。
    つぎは22日の東京国際映画祭・六本木
    ヒルズでのシンポジュウム。似たようなテーマ
    で話し合います。

  17. Aa より:

    大山鳴動鼠一匹のきらいがないでもないですね

  18. hiroshi't より:

    江口寿史氏の「キャラ者』はこの場合どーなるんだろう?
    キャラという概念をチャカしてる?

  19. hiroshi't より:

    江口寿史氏の「キャラ者』はこの場合どーなるんだろう?
    キャラという概念をチャカしてる?

  20. へろ より:

    坊や哲さん
    >テクストはロラン・バルトのタームで、
    >物語は蓮實重彦のそれですが、
    そのように限定されることもないんじゃあないでしょうか。
    伊藤さんの「テクスト」も竹熊さんの「物語」も、キャラとキャラクター云々
    の分析という文脈で、何事かをいわんとして、これらの言葉を用いている
    とみればいいわけでして、とりあえず、哲学辞典的な濃い意味は措いておいて、
    お二方がなにを言わんとしているかをもう少しハッキリさせることもできそうな気がします。
    ただ、「物語」あるいは「ストーリー」とかいう言葉(あえて、「テキスト」は外しますが)は、
    概念としても何か境界線が曖昧で、
    それが「認められるかどうか」という形で使うのは、
    少しキツいような気がします。
    実際、この境界部分の感じ方の個人間のズレが
    論題となったことも、ここまで結構あった気がします。
    そういう意味では、もしも物語とか、ストーリー性といったところで、
    もう充分クリアーになったからそれ以上突っ込む必要はない、
    ということになるのでしたら、私も、坊や哲さんと同じように、
    根本的な疑問を提起したいと思いますが。
    ああさん
    >大山鳴動鼠一匹のきらいがないでもないですね
    まあ、かたいことおっしゃらず(笑)。
    「学問の進歩」なんて、ネズミ一匹でも出ればいい方ともいえます。
    「学問の進歩」 とは、多くの人が、少なくとも薄々は気付いている、
    あるいは気付いてしかるべき事柄に、言葉を与えて、
    ありきたりのことにしてしまうことだ
    といえなくもないわけで。
    長くてすみません。

  21. sima より:

    (A)図像レベルでの「キャラ立ち」と、(B)物語レベルでの「キャラクター立ち」だ。
     昔話や民話の登場人物には、特定の「人格」「性格」を表象するキャラクターが多い。『白雪姫』に出てくる魔女。七人のこびとは「おこりんぼ」「てれすけ」といった特定の性格の象徴である。象徴的・本質的であるが非リアルな存在を図像レベルで表現したものが、伊藤のいう「キャラ」になるのではないだろうか

    それは、また別の話で、図像レベルのキャラ、物語レベルのキャラ、以外に、象徴レベルのキャラがあると考えたほうがよさそうです。

  22. sima より:

    図像レベルのキャラ(かわいいマスコットが多い。例外は、格闘ゲームキャラなどで絵が細かい)、図像によらない性格だけはっきりしている象徴レベルのキャラ(白雪姫の7人のこびとなど)。これらは、物語に依存しない。逆に物語に依存するのは、物語レベルのキャラ。
    と考えればいいのでしょうか。

  23. Aa より:

    なんというか'80年代な匂いが当スレにただよっております

  24. 坊や哲 より:

    少し追加させてください。
    私はいわゆる「哲学的な用語」を頭ごなしに否定しているわけではありません。本書をアカデミズムの俎上に乗せる企てであれば、一定の有効性はあると思います。
    ただ、文学の言論状況にも注目しておく必要はあるのではないか。ニューアカブームが巻き起こった当時、柄谷行人・浅田彰・蓮實重彦と並んで、いとうせいこう氏もその周辺で活躍していました。彼は『探求Ⅰ』をラップにして歌い、中上建次のシンポジウムにも参加していました。
    その当人が現在では奥泉光と対談集を出し、文芸批評特有の言い回しを笑いのタネにしているのです。
    おそらく、哲学的用語の乱発は戦略的にいって失敗だったと痛感しているのではないでしょうか。
    必要性があって使用する分には何も問題ないと思いますが、わざわざハードルを高くする必要もないのではないか。
    それから、竹熊さんが「物語」という言葉を使う際には素直に理解できるのですが、「テクスト」という言葉と並ぶと、たちまちにしてニューアカっぽくなってしまうということです。ここは誤解のないようにお願いします。
    そして伊藤さんの今回の仕事にはもちろん敬意を払っておりますし、中傷する意図がないことも表明させてください。

  25. 坊や哲 より:

    中上建次→中上健次でした。

  26. 長谷邦夫 より:

    またズレますが、ディズニーの『白雪姫』を
    観て、黒澤明が『七人の侍』を撮った~と
    いう証拠を、どなたか発見して下さい。
    『白雪姫』を見るたびに、勝手にこの珍説を
    つぶやいています。「ディズニーってすげえなあ…」って。

  27. Aa より:

    戦時中にシンガポールでおさえた『白雪姫』のフィルムが日本の映画関係者のあいだでひそかに上映されていたこと、その席に黒沢もいたことまでは確認されているそうです。
    森卓也氏によると、このときのフィルムは戦後の正式公開時(昭和25年9月)にも使いまわされたらしくて当時かなりの擦り傷があったそうです。

  28. レポレッロ より:

    >ディズニーの『白雪姫』を観て、黒澤明が『七人の侍』を撮った~と
    >いう証拠を、どなたか発見して下さい。
    黒澤と彼のシナリオチームは最初「六人の侍」にしてシナリオ書いてたらしいですね。
    シナリオを書いてて、侍達が村に入った時にどうしても村人と交流出来ないので困ってしまい、元百姓の菊千代というキャラを設定して最初から書きなおした・・・という話を黒澤は何度もしてます。
    六人てのは座りが悪い数字なので黒澤のネタかな?とも思いましたが、戦時中に黒澤がシナリオを書いた「敵中横断三百里」も六人の斥候隊の話なのであり得たのかな?

  29. より:

    >漫画とは外れますが、我々の世代ですと「格闘ゲームのキャラクター」がいかにも伊藤剛で言うところのキャラだなと。
     確かに、格闘ゲームのストーリーは知らなくてもゲームを楽しむことには困らない(ゲームセンターで「メルティブラッド」をやっている小中学生達が「月姫」をやっているとは思えない)。
     知っていたほうが面白さは全然違うけど。

  30. めたろう より:

    「T・I・D」ようやく読み始めてますが、これは斜め読みできないなと、苦戦しながら読むのでキャラ論までたどりついていません。俺、バカが進んだなぁ。
    たけくまさんのエントリを予告編として読んでワクワク。上記エントリ時点での断片的感想。
    ・永野護の「ファイブスター物語」の、設定優先の制作スタイルはこの問題と関わるのか?
    ・手塚治虫の多用した「スターシステム」はどう位置づけられるのか?(元芝居者としては凄く気になります)
    ・良くある状況設定として、
    「娯楽小説のシリーズ物において、キャラクターへの人気が肥大暴走しすぎて、作者がシリーズをコントロールできなくなる」(シリーズを終わらせられなくなる)現象が、現実にもあるわけですが、この俗に言う「キャラの一人歩き」はどう位置づけられるのか?
    ・「キャラの一人歩き」は、例えば現実の事件
    、事象に対しても頻繁に起こるが、どう考えるべきか(2CH内で、現実の人物がAA化されたりする)
    ・古くからある「擬人化」とキャラ問題の違いとはなにか?
    (萌えムーブメントでの「OSたん」や「アフガニスたん」は現実の事象のキャラ化は擬人化と違うような気もするし、、、、。擬人化はキャラ化の上位概念?逆?)
    等など、どんどん妄想がふくらみます。

  31. 匿名 より:

    (萌えムーブメントでの「OSたん」や「アフガニスたん」は現実の事象のキャラ化は擬人化と違うような気もするし、、、、。
    訂正→(萌えムーブメントでの「OSたん」や「アフガニスたん」のような現実の事象のキャラ化は擬人化と違うような気もするし、、、、。

  32. トロ~ロ より:

    シンガポール占領時に押収したフィルムには「ファンタジア」も。
    それを見て驚愕した当時の日本のアニメーター達が、戦時下に必死で制作したのが「桃太郎 海の神兵」であったとNHKの番組で見たような記憶が。
    ググってみると
    なぁんと小津が見まくっています!
    http://www.sadanari.com/eiga980705_05.html
    「桃太郎 海の神兵」は手塚治虫のアニメ原体験。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%A4%AA%E9%83%8E_%E6%B5%B7%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%85%B5
    話が大いにずれてしまいました。

  33. 長谷邦夫 より:

    >戦時中にシンガポールでおさえた『白雪姫』のフィルムが日本の映画関係者のあいだでひそかに上映されていたこと、その席に黒沢もいたことまでは確認されているそうです。
    お~っ!やはりね。
    有難う御座います。
    森先生とは、年末の毎日コンクール
    アニメ選考会で古くからお会いして
    います。
    ディズニー研究に熱心な渡辺泰さんも。
    やっぱり、カンに狂いはなかった。
    6人ではすわりが悪いというのも
    面白い。
    論議したときに3対3になるのも
    困るし…。アニメ選考会は9名です。
    ですから5対4で『雲の向こう、約束の場所』が受賞。宮崎作品が破れた。

  34. 匿名氏 より:

    天才谷岡ヤスジ先生のマンガの登場人物も「キャラ」ですか、、、うーん何か違うような
    「キャラもの」についてのhiroshi'tさんのご指摘は同感しました 江口さんはああいう時代のちょっとした風潮をかいつまんでギャグにするのが上手いですよね

  35. DEF より:

    横やりすみません。
    >坊や哲さん
    「テクスト」は伊藤氏が『T・I・D』の中で使用しているので
    たけくまさんの『T・I・D』解釈に出てくるのは仕方ないかと存じます。
    たけくまさんも自身の言葉としては使っていないように思いますし
    その問題提起をここでなされても「伊藤氏に聞いてくれ」以外の
    回答は得られないのではないかと。
    その上でたけくまさんに「物語」の定義を問うのは意味あることだと思いますが
    いかがでしょう。
    >レポレッロさん
    アバウトなキャラについてですが、そういうキャラは「キャラが弱い」ということで
    『T・I・D』ではNANA(キャラクターは強いがキャラが弱い)を引き合いに出して
    説明がなされています。
    背景から主役級への昇格はキャラに新しいキャラクターがつけられた状態、
    デビルマンは別のキャラをひとつのキャラクターで結んだ状態
    で説明できると思いますがいかがでしょう。

  36. 匿名氏 より:

    あと、どうでもいいことですが、「仁義なき」シリーズを見た外人が松方弘樹や梅宮辰夫がなんで一回死んでいるのに、再登場するのか分からなかったとか、、、外人は、高橋留美子さんやあだち充さんのマンガにも同じことを感じるのでしょうか。

  37. oja より:

    つまり「キャラ」とは象徴であり、「キャラクター」とは記号のことですね。
    ”穏やかな状態”を象徴する”鳩”から、それを記号化してしまう「平和」という言葉まではいくつものその中間的な存在があります。「キャラ」と「キャラクター」の間も当然シームレスにつなぐ多くの存在があるでしょう。あえて誰かが線を引かなければそれが見えてこないのも当然です。
    格闘ゲームやギャグマンガでは象徴で十分ですが、複雑なストーリーを語ろうとすれば記号を用いなければなりません。”穏やかな状態”について語ろうとすれば、”鳩”ではなく「平和」という言葉が必要になるのと同じ事です。

  38. oja より:

    記号と象徴について書き加えます。
    ”穏やかな状態”から”鳩”という存在を思い浮かべることはできます。しかし”鳩”という存在が必ず”穏やかな状態”に結びつくわけではありません。食材の一つとして考える人もいるかもしれないし、昔公園でえさをあげたという記憶に結びつく人もいるでしょう。一方「平和」という言葉は”穏やかな状態”と一対一の対応をなす、つまり置き換えが可能な存在です。これが記号と象徴の決定的な違いです。

  39. 坊や哲 より:

    >DEFさん
    おっしゃる通りで、問いかけがチグハグでした。批評用語が共通了解ごとのようにして、どんどん進んでいくので、つい書き込んでしまいました。また、ここを読んでいる皆さんの感想も聞きたかったのです。竹熊さんはご自身の著書のタイトルでも「スキゾ」「パラノ」という言葉を使っているので(浅田彰さんが流行らせたものです)、かなりその辺について自覚的だと常々感じていました。解釈に水をさすようであれば、無論スルーで構いません。

  40. より:

    たけくまさんがおっしゃるように「キャラ」と「キャラクター」は日常会話においては同じ意味で使われています。
    だから伊藤氏の言い方は非常に分かりづらい。混乱してしまう。
    たけくまさんが提案する、「純粋キャラ」「絶対キャラ」という言い方もわたしにはいまいちピンときません。
    それなら、「図像キャラ(伊藤氏のいうキャラ)」「物語キャラ(伊藤氏のいうキャラクター)」とでもした方が良いのではないでしょうか。
    何か良い言い方がないものでしょうか。
    直感的に理解できて混乱しない言い方が。

  41. マロー より:

    面白いですー「キャラとキャラクターの分別」
    私もたけくまさんの解釈に納得です。
    「キャラクター」は「読み手が共感できる、あるいは感情移入するに足るもの」で、「キャラ」は「イメージ、なんらかの象徴であってそこには読み手の共感する要素はない」と解釈しましたが、いいんでしょうか。
    最近の「萌え」現象が頭では理解できても感覚では理解できないのがクヤシイ思いをしていましたが、なんだか光明が見えてきそうです(笑)「萌え」って、感情をあらわす単語だし、感覚でわからないとわかったことにならないとずっと思っていたので。

  42. 坊や哲 より:

    私にとって理解しやすい呼称
    「キャラクター(伊藤氏のいうキャラ)」
    「プレイヤー(伊藤氏のいうキャラクター)」

  43. たけくま より:

    >坊や哲さん
    「スキゾ・エヴァンゲリオン」「パラノ・エヴァンゲリオン」でスキゾ・パラノを使用したのは、庵野監督の要請によるものです。(もともとは鶴巻副監督の発案だったと思う)。
    もともと僕自身はフランス現代思想系が苦手で、浅田彰の『構造と力』は当時話題になったので一応買いましたが、10ページ読んでもよく理解できずそのままにしていました。
    さすがにスキゾ(分裂)・パラノ(偏執)の意味はわかりましたが、脱構築とかポスト構造主義とか、そのへんの意味を理解したのは数年後のことです。理解したら「なんだ、俺自身がやってたことじゃん」と思って拍子抜けしました。

  44. たけくま より:

    >Aaさん
    戦時中に「白雪姫」を黒澤が見ていたというのは、何か出典がありますか? 当時の映画関係者が米軍から接収したアメリカ映画を見ていたというのは、僕も読んだ記憶がありますが、黒澤が見たというのは初耳でした。もちろん、見ていても不思議はないんですが。
    これも出典はあやふやなんですが、戦後に関しては、黒澤がディズニーファンだったという話は聞いたことがあります。(女優ではマリリン・モンローが好きだったらしい。意外)
    そのうちエントリ化できればと思いますが、黒澤と手塚治虫が協力して、ポーの「赤き死の仮面」を実写+アニメ合成で映画化する企画もありました(脚本は完成していた)。一種のミュージカル映画で、ミュージカル場面がアニメーションになる予定だったそうです。
    晩年、黒澤が宮崎駿を高く評価し、自ら接触していたのも、この企画が念頭にあったのかもしれません。

  45. たけくま より:

    あと、フランス現代思想系の用語に抵抗感を持つ人がいるのは承知しています。他ならぬ僕自身もそうで、自分自身は極力平易な言葉を使いたいと思ってるんですが、抽象的議論の領域では、使ったほうが便利な局面もあるとは思っています。
    あとは、まあその人の趣味の問題ですかね(笑)。『T・I・D』に関しては、必要以上に衒学的な使い方はしてなかったように思いますけど。

  46. トロ~ロ より:

    あ。
    たけくまさん、おはようございます。
    (これから御就寝されるところでしょうか。)
    シンガポールは英国領だったので、降伏した英軍からの接収です。
    フィリピンは米国領だったので、撤退した米軍からの接収です。
    フィリピンから米国製映画フィルムが国内に持ち込まれたという話は聞いたことがありません。
    ありえそうな話ですのに。
    黒澤明は、戦前は助監督、戦中に初監督していますので、末席で見ていた可能性は大、大、大。
    私もニュース・ソースか出典を是非知りたい。
    オタクや萌えを生んだミーム(文化的遺伝子)は意外にも戦争を契機としていた、という発見です。

  47. 長谷邦夫 より:

    黒澤プラス手塚・シナリオ!
    そんなものが存在したとは!
    よみてぇ~っ!!
    保存されているんでしょうかね。
    手塚先生が「キャラ」を描き、
    黒澤監督が「キャラクター」を立てる。
    宮崎駿がそれを、トンでもない
    自分流のアニメにしてしまう。
    真夏の夜の夢である。(笑)
    しかし、ホント、そのシナリオはどこに?

  48. うもとゆーじ(ウサギ王) より:

    この話を読んで、ちょっと前に(今話題のw)avexでキャラクターオシゴトをした時の事を思い出しました。
    当時、原作・制作者としていくついかの会議に出させてもらいましたが、その場では「背景(バックストーリー)ありきのキャラクター」と「単独のキャラクター」の比較・認識が既にありました。
    前者は「こげぱん」、後者はやはり「キティー」でした。
    後者は女子高生などの幾つかの層にグループインタビューをかけると、「ピンクだから」とか「ねこだから」とか単純な理由で好まれるのですが、後者はそうはならないので、いかに販売・宣伝の際にストーリーを押し出すか、という部分をどうするかがメインの問題となっていました。多分どこのキャラクタービジネスの現場では共通する認識なんだと思います。>ストーリー込みのキャラと、単独で存在するキャラ。
    まんがとはちょっと離れた話ですいません。

  49. たけくま より:

    >うもと様
    あ、うもとさん、お久しぶり。
    なるほど、うもとさんのような仕事をされている人のほうが、むしろ「キャラ」「キャラクター」の関係はわかりやすいかも。
    マンガ関係者だと、どうしても「ストーリーの中のキャラクター」を思ってしまうので、伊藤くんの言う「キャラ」はピンと来にくいかもしれないですね。まあ説明すればわかるんですが。

  50. たけくま より:

    >長谷先生
    シナリオは黒澤明が執筆したもので、実際に存在します。黒澤としては、本当は「デルス・ウザーラ」の後に、引き続きソ連で監督する希望だったようです。
    ですが「デルス」がソ連政府の期待に必ずしも応えるものではなかったので、この企画はなしになり、黒澤は例によって舞台を日本の戦国時代に移した翻案ものとしてシナリオを書き直しました。ミュージカル+一部アニメ映画にするプランがどの段階で生まれたかは知りませんが、最終稿ではそうなっているようです。
    僕がなぜそれを知ったかというと、「影武者」完成後に、週刊誌のインタビューで次回作を問われて「赤き死の仮面」と黒澤自身が答えているのです(結局それは「乱」になりましたが)。
    そのときの記事が手元にないんですが、「戦国を舞台にしたミュージカル映画になる。真っ赤な夕陽をバックに、無数の鎧武者が舞い踊る幻想的な場面を撮る予定だ」と話していました。
    その記事では「アニメ」の話は出ていなかったんですが、手塚さんの死後、僕が『一億人の手塚治虫』を編集していたときに、77年頃のインタビューで「実は、今、黒澤監督からオファーがあって」という手塚さんが話していた記事を発見しました。
    それでそのとき、「そういえば手塚先生のお通夜のとき、一番目立つ場所に黒澤明の花輪があったな」ということを思い出したわけです。
    そこで、よもやと思い、後日手塚プロの関係者に聞いてみたら、「よくご存じですね。たしかに黒澤監督からオファーがあり、『赤き死の仮面』のアニメパートを演出する予定でした」という返事が返ってきました。
    という次第です。

  51. レポレッロ より:

    >>レポレッロさん
    >アバウトなキャラについてですが、そういうキャラは「キャラが弱い」ということで
    >『T・I・D』ではNANA(キャラクターは強いがキャラが弱い)を引き合いに出して
    >説明がなされています。
    DEFさんレスありがとうございます。やはり「T・I・D」早く読まなければならないですね。
    でもアバウトなキャラの場合は、キャラが弱いのとも違う気もするんですよね。純粋キャラに依存しないキャラというかというか。
    >背景から主役級への昇格はキャラに新しいキャラクターがつけられた状態、
    >デビルマンは別のキャラをひとつのキャラクターで結んだ状態
    >で説明できると思いますがいかがでしょう。
    これは分かりやすかったです。
    ただ<キャラクター>という言葉は、あいまいというか便利過ぎる用語だなあという気もします。他の議論も読んでも、やはりキャラとキャラクターの呼称は普段同じ意味で使われてるだけに混乱します。
    キャラ=スタイル
    キャラクター=モチーフ
    とでも呼ぶのはどうでしょうか?
    こういうとき富野由悠季ならばすごくカッコイイ言葉をひねり出してくれるんでしょうけど(笑)。
    >しかし、ホント、そのシナリオはどこに?
    「赤き死の仮面」のシナリオは全集・黒澤明(シナリオ集)の最終巻に収録されてますね。自分はまだ読んでないですが。
    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000913271/qid%3D1128913644/249-8229001-7908308
    どうでもいいですが<シナリオ>という文字ジーと見てると訳わからなくなりませんか?これが噂のゲシュタルト崩壊?

  52. Aa より:

    黒沢が白雪姫うんぬんの話は森卓也氏の『映画この話したっけ』かもう一冊の姉妹本のほうにあったと思います。図書館から借りたものでいま手元にはないのですけど。
    黒沢+手塚コンビネーションの話は手塚とギラーミン監督が『キングコング』日本公開のときにキネ旬かなにかで催された対談のなかで手塚がもらしていました(おそらく竹熊本にも収録されたものです)。
    ところで白雪姫といえばむしろナウシカへの影響がとっても大きいとは思いませんか。随分前に二つ下の妹とビデオをかけながらあーだこーだ言い合った覚えがあります。

  53. たけくま より:

    ↑そうそう。ギラーミン監督との対談記事でした。

  54. ウサミミ より:

    「七人の侍」は、最初「一人の侍」だったそうです。
    これは、「対話 山田洋次 2 映画は面白いか」(旬報社)で山田監督の質問に対して黒澤監督が答えています。
    曰く、一人の侍の極々平凡な日常生活を描こうと思ったら、食事の仕方や歯の磨き方など具体的なことがどうしてもよくわからなかった。困っていると、共同脚本執筆者であった橋本忍氏が戦国時代に百姓が野武士を雇っていたという話をもってきたそうです。で、急遽それに切り換えたと。
    「七人」という数については、閃きに近く、プロデューサーの本木荘二郎に「題名は?」と問われて、その場で「七人の侍」と書いたとのこと。
    ちなみに、映画公開後に、自衛隊の高官がやってきて、「この映画は誰の指導を受けて戦略を考えたのか?」と問うたそうです。
    誰にも相談してませんよと、黒澤が答えると、彼は「えっ!」と驚いて、「あの勘兵衛のやり方は、アメリカ軍の作戦要務令とそっくりだ」と言ったらしいです。

  55. レポレッロ より:

    >曰く、一人の侍の極々平凡な日常生活を描こうと思ったら、
    >食事の仕方や歯の磨き方など具体的なことがどうしてもよくわからなかった。
    >困っていると、共同脚本執筆者であった橋本忍氏が
    >戦国時代に百姓が野武士を雇っていたという話をもってきたそうです。
    ↑この話、生前の黒澤が何度もしてるんですが、ちょっとマユツバなんですよね。
    それというのも、だいぶ前ですが吉川英治の「宮本武蔵」読んだら、「七人の侍」とソックリの話が出てくるんで驚いたんですよ。
    武蔵が剣を捨てて百姓をしていた時、近隣の村が盗賊に襲われて武蔵が百姓を組織して撃退する、という筋です。
    戦前戦中の「武蔵」といえば大ベストセラーなわけでで、NHKラジオで徳川夢声の朗読もされ大人気だったそうです。
    黒澤明、橋本忍、小国英雄という一流の脚本家三人に加えてプロデューサーの本木荘二郎までいて、誰も「武蔵」とのプロットの類似に気付かなかったというのはちょっと考えづらい。
    もしかすると「一人の侍」の話にするとロコツに盗作になってしまうので、侍がチームとして活躍する話に変えたのかもしれません。

  56. たけくま より:

    僕は「七人の侍=桃太郎」説を昔からとっています。
    鬼=野武士
    勘兵衛=桃太郎
    その他の侍=イヌ・サル・キジ
    握り飯=吉備団子
    見よ、この恐るべき一致を! 桃が流れてドンブラコ、のくだりはさすがにありませんが。

  57. Aa より:

    これはある方からの受け売りなのですが、あの七人はそのまま親子関係なのだそうです。
    勘兵衛がおとうさん
    七郎次がおかあさん
    久蔵がいちばんうえの息子
    菊千代は次男
    勝四郎が末っ子
    五郎兵衛と平八はなんでしたっけ
    おじ、おばのポジションかな
    最後に観たのはもう10年以上も前なので細かいところは覚えていません。(すいません) ただ勘兵衛が七郎次のことを自分の古女房であると誰かに紹介していたシーンが印象的でした。

  58. gonzap より:

    遅レスになりますが長谷先生
    >ですから5対4で『雲の向こう、約束の場所』が受賞。宮崎作品が破れた。
    なんと! 僅差とは思っておりましたが…
    『T.I.D.』は2冊買って、1冊はマンガで喰っていこうとしてる
    才能溢れる女子大生にプレゼントしてきました。

  59. 鉄鋼 より:

    以前予告された「黒澤明 喪男説」
    是非ともブログでやって下さい今回のコメント
    すごく面白かったです、うーそれだけです
    失礼しました

  60. 閑々 より:

    もう、話は終わってしまっているのかもしれませんが、「キャラ」と「キャラクター」について。
    私は、『T.I.D』の中にある「キャラの自立性」という言葉から、この分類が今の「萌絵」の解釈のためのステップのようにも感じたのでその見解を書かせていただきます。
    「キャラクター」は物語の中で、ある役割を振られた登場人物で、「キャラ」はその登場人物の絵柄自体が物語性を内包するようなキャラクターなのではないでしょうか。
    キャラはキャラクターに含まれる部分集合で、しかし物語から飛び出たとしても何らかの物語属性を感じさせるものという解釈です。
    部分集合とはいっても、同時にキャラはその絵柄から受け取り手に何らかの物語性や属性を感じさせる事から、そのキャラクター性を越して物語自体にも干渉してくる可能性を持っているという意味で、物語と対等か時には上位に存在し、物語のパーツとしてのキャラクターへも干渉を起こすこともある。(この辺が、キャラの一人歩きという現象かと思っています)
    したがって
    「キャラ」:物語性を内包し受け取り手にそのキャラのみで何らかの感情を惹起させる人物等。
    「キャラクター」:物語の中での役割によって物語りに組み込まれた人物等。
    という事になり、
    伊藤さんが例に出されているような「ウサギ人間」が「キャラクター」から「キャラ」そしてまた「キャラクター」へというリニアな変化が演出できたのは、「ウサギ人間」の絵柄が元々「キャラ」として描かれたものに(手塚先生のキャラクターは「キャラ」度が高い)物語の上で「キャラクター」としての役割が与えられ、その後「キャラ」に変化して再び「キャラクター」としての地位を与えられる流れだったからではないかと思います。
    コレが萌絵の解釈へのステップになるのではないかという理由は、萌絵を語る多くの表現が受取り手にとっての「その絵から与えられる印象」を物語化する形をとっているような印象がある事から来ています。(私だけでしょうか?)
    萌絵を語るときに、その描かれたキャラクターの印象が物語を惹起せざるを得ないものならば、コレは「キャラ」という事になり「キャラ」ゆえに物語自体に干渉を与える可能性を秘めているわけです。しかし、元になる物語が既に確定している以上、その受け取り手によって産み出されてしまった「キャラ」は消費されることが出来ずにくすぶる事になる。そのことが萌絵を語るときに物語性を付加せずにいられない理由になっているのではないかと思うわけです。
    したがって、物語化自体がそのキャラクターの絵に含まれた形で表現されたキャラクターが「キャラ」でありそのことに自覚的に作られた「キャラ」が「萌絵」という事になるのではないかと思うわけです。
    長文失礼いたしました。

  61. ryu より:

    演劇になぞらえるなら「純粋キャラ = 役者」で「キャラクター = 配役」になるのでしょうかね? 役者の魅力と、役者が演じた役の魅力は、確かに別の存在という気もします。

  62. Aa より:

    >黒澤明 喪男説
    どの作品にもきっつい女性(『まあだだよ』はそうでもなかった)がでてくる癖については彼自身がインタビューで語っていました。
    でも長身の彼は助監督時代もてまくっていたと聞いています。
    そういえば結婚式より長男・久雄氏の誕生までが○ヶ月であったとかなかったとか。

  63. 鉄鋼 より:

    >>Aaさん
    レスサンクスです
    その辺に関しては以前の予告でも話題になってましたね。
    でも彼が一般人より若干、童貞を、こじらせていた
    可能性はあると思います
    (本人が具体的に語って無い以上、下衆の勘ぐりにしかなりませんが)
    竹熊さんの言葉の端々に出る黒澤監督に
    関する知識量が気になって仕方が無いのです
    (「さるまん」のラストの竹熊、相原コンビが「どですかでん」
    のパロディだった時から気になってしょうがないのです)
    一回どばーっつと黒澤知識を披露して欲しいです
    是非、気が向いたらお題は別でも結構ですお願いします
    期待している黒澤ファンが少なくとも
    ここに一人おります(笑)

  64. たけくま より:

    ↑そのうち書きます。黒澤喪男

  65. ホネオトコ より:

    初めまして。
    「キャラ」と「キャラクター」の分別、興味深い話題ですね。
    ところで、「萌えキャラ」は「キャラ」、「キャラクター」のどちらなのか?と考えていて気がついたことがありますので、書かせていただきます。
    これは僕には「キャラ」であるような気もするし、「キャラクター」であるような気もします。すがやみつる氏も「キャラクターは立てるもの、キャラは萌えるもの」と「萌えるのはキャラではない、キャラクターなのだ」の両方を書かれています。
    竹熊さんもすがや氏もまだまだジャブ程度の段階のようですし、私はまだ「T・I・D」も読んでおりませんのでもしかしたら今後その当たりがクリスタルクリアーに見渡せるのかもしれませんが、現時点で私が特にマンガの読者としての視点こだわって考えたものを書かせていただきます。
    どんな漫画も、始めて読む読者にとっては「キャラクター」も初めはただの「キャラ」です。(伊藤氏の用語の意味で)
    ですので、全てのキャラクターは初め「素キャラクタ(原初キャラクターでもいいかな?)」である、とします。
    さらにこの状態ですでに十分なかわいさ等、インパクトを備えていればそれはキティちゃんのような「アイコンキャラクター」となります。
    「素キャラクター」に物語が加わり、読者が感情移入できるようになるとそれは「同化型キャラクター」になります。
    小池和夫氏の「キャラクターを立てる」はほとんどの場合まさにこの過程のことだったと思います。
    ここまでは伊藤氏の「キャラ」「キャラクター」とほぼ同義です。
    さて、では物語が加わった結果、読者が感情移入するのでは無く、好きになったり(萌えたり)、憎んだりといった感情的行為の対象として立ったときはどうなるのでしょうか?伊藤氏の分類ではこれも「キャラクター」に入りますが、私は読者の視点ではここに決定的な違いがあると思います。ですので、これを「感情的行為対象型キャラクター」(長っ!あまり良い呼び名では無いですね)とします。言うまでもなく「萌えキャラ」はここに入ることになります。
    この観点から「マンガはつまらなくなった/物語は終わった」を解読すれば、ここで言われている物語は(もちろん例外はあるとしても)主として「同化型キャラクター」を立てるための物語であるのに対し、近年のマンガでは、「感情的行為対象型キャラクター」を立てるための物語が与えられているケースが増えているからそう感じたのだ、ともいえると思います。
    ところで、この論法では御前試合形式の「DB」が面白くないと感じられた原因を単純な形では説明できません。なぜなら、「DB」はまさに「同化型キャラクター」がメインの作品であり、新世代の「感情的行為対象型キャラクター」がメインの作品ではなかったからです。
    もちろん、単にストーリー重視からキャラ重視への移行が原因と説明しても良いのですが、もう少しだけ掘り下げてこういうのはどうでしょう?
    「同化型キャラクター」のためのストーリーは、始まりと終わりのある「ドラマ」によりマッチし、「感情的行為対象型キャラクター」のためのストーリーは明確な終わりの無い繰り返しに耐える傾向がある。「DB」は「同化型キャラクター」メインの作品なのに不向きな繰り返しを無理に続けていたのであまり面白くなかったのだ、と。
    どんなもんでしょうか?
    長文失礼いたしました。

  66. 長谷邦夫 より:

    >レポレッロさん。
    有難う御座います。速攻でアマゾンに
    注文致しました。
    >たけくまさん。
    黒澤篇、期待してます。
    『白雪姫』『七人の侍』の関係もキャラクター
    分析の特集で!やっぱり天才のやることは
    面白いですね。伝説も刺激を受けますよ。
    大塚英志の『どろろ』分析(『物語の体操』)
    みたいに、竹熊分析!(笑)
    伊藤さんの話しから脇道に入ってしまった
    けれど、これなら剛さんもお怒りにはなりま
    せんよね。

  67. >ほねおとこさん
    「萌える男の赤いキャラクター」は、単なるギャグのつもりですので、ばかばかしいと読み飛ばしてください(^_^;)。
    「キャラ立ちの花」も単なるダジャレですから(;_;)。

  68. 夏目房之介 より:

    「テヅカ イズ」は、僕もいろいろ考えなくちゃならないので、ベンキョになります。ただ、ちょっと混乱してる気がするのは、基本的に「この問題を考えるためには、このことを二つの面からみると便利」っていう仮設的な概念をやや実体的に腑分けして理解しようとしすぎるのではないか、という点です。つまりマンガに描かれる人物などに含まれる「キャラ」性と「キャラクター」性という側面(当然「子連れ狼」の拝にも両方がある)を、実体にひきよせて理解しようとすると、まるで分数をリンゴで理解するような混乱がおきやすいのではないかと思います。書き込まれた方には、そこを理解されてる方と、そうでもない方がいて、言葉の水準が食い違っている印象を受けました。伊藤君の意図は、僕の推測では、「萌え」という現象を「じつは手塚が緊密な物語の中に組み込まれた表現にしてしまったキャラクターには、それ以前からいかにもマンガ的なるものとして存在したありようを含んでいるのに隠蔽した」という史的な過程と連続的に捉えようとして、実体というよりは概念操作として仮設的に分離してみせたということではないかと。ちょうど実体としての作者と読者のあいだに実体としての作品ではなく、自律した存在としてのテクストというレベルを設定すると、いろいろ理解できることがあるよっていうのと同様に。その意味では「キャラクター」は特定のお話に内属しますが、「キャラ」はマンガやアニメや二次創作、賞品などに共有されるレベルのものということかなと。現時点で考えたほうがいいのは、伊藤君が何を考えるために、何をいいあてようとしているか、というモティーフじゃないかと思いました。
    すいません。余計、混乱するかもしれませんが。

  69. たけくま より:

    ↑今週中に伊藤君の「キャラ論」の実証部分にあたる「地底国の怪人」論を紹介・検討するつもりです。
    ある程度書いてはあるんですが、別件の仕事が終わらないのと(笑)、夏目さんの提起された問題も考慮して、もう少し煮詰めてからアップしますので、週末になるかもしれません。
    夏目さんもご自分のブログで書かれていましたが、今回の「テヅカ…」はまさに、一人の著作者にとって「きわめて抑制された緊張感のある(ひょっとしたら著者が一生に一度しか書けない種類の)本になっている。」と僕も思います。
    この種の本を批評するのはそれ相応の覚悟がいるし、伊藤くん自身も、今後の彼の仕事は必ず「テヅカ…」との比較において語られる運命にあるでしょう。
    夏目さんは、ご自分が「『手塚治虫はどこにいる?』を書いていたときのことを思いだした」と書かれていますが、僕にとっての『サルまん』もそうでした。(庵野秀明氏にとっての『エヴァ』、最近では本田透くんの『電波男』もたぶんそう)
    全力を尽くしガチンコで書かれた作品は、読んで気持ちがいいものですが、作者自身を一生縛るカセにもなる。それを考えると、恐ろしい気もしますね。

  70. 夏目房之介 より:

    >たけくまさん
    >全力を尽くしガチンコで書かれた作品は、読んで気持ちがいいものですが、作者自身を一生縛るカセにもなる。
     うん、他人事じゃないっていうか、つい感情移入しちゃうんだよねー。俺、こんなマジメじゃねぇよ、って最近思うもの(笑)。遊び放題の仕事がしたいなぁ。

  71. Aa より:

    夏目さま: 改行されたほうがよろしいかと思います。
    それからガイネンソウサとかジッタイとかぱんぱん撃ちまくるときには事例をいくつか挿んでいただけたほうが私のような漢文嫌いには助かったりして。

  72. マロー より:

    すごくシンプルに考えると、「萌え~」という言葉そのものは、女子高生やなんかが「超カワイ~!」といったりするのと同じですよね。
    でもシャイなオタクにとってはそれは恥ずかしくて言えない。
    でも昔の熱血アニメやマンガによる「燃えるぜ!」の「燃え!」なら躊躇なく使えるということから「燃え→萌え」は比較的使いやすい流れではなかったのかと思います。
    問題は「萌え現象」そのもので、それはこれからのたけくまメモを楽しみにしてます。
    私的に気になるのは、「萌え」といっているオタクたちの「グッズにかける異常な執着心」はどこからきているのか?です。
    自分なりの仮説はあるのですが・・・うーん。
    それにしても著名な先生方ばかりで、やっぱたけくまメモいいなぁ~。

  73. マロー より:

    >それが「キャラクター」になったとたんに、本質である「キャラ」の部分が見えなくなる(隠蔽が働く)
    「変質」ではなく「隠蔽」というところが難しいです><
    連続投稿すみません。

  74. 倉井あどき より:

    はじめまして。原典を読んでいないのに又聞きで理解した気になって語るのはあまり良くない事なのですが、この記事のコメント欄を上から下まで読んで我慢出来なくなったので少しだけ。なので的外れな事を書いていたらごめんなさい。
    えっと私は『テヅカ・イズ~』を読んでいないので伊藤さんの主旨云々というのは全く分からないのですが、マンガに「図像レベルでの『キャラ立ち』」と「物語レベルでの『キャラクター立ち』」があるという(仮定の?)話をしている、という所までは理解できたと思います。
    で、既に指摘されている通りこの二つは「マンガでは」実際に分離する事は出来ません。ただし、だからと言って概念上も不可分な物とは限らないと思うんですよ。
    ややこしい話なので少しトリッキーな説明をすると、例えばマンガと小説って「話を語る」媒体という意味では兄弟というか親戚みたいなものだと思うんですけど、「言葉」だけで全てを表現する小説と違ってマンガは「絵」と「言葉」で表現する訳ですよね。つまり何が言いたいかというと小説では「言葉」で全て担っている「物語の機能」をマンガは「絵」と「言葉」で分担しているという風にも見れる訳です。
    で、ここからが本題なのですが、マンガにおいて「絵」が担っている機能の一つに「キャラクターの在不在の表示」というのがあります。コマの中にその登場人物(の特徴を持った絵)が描かれる事によってそこに「存在する」という意味が与えられる訳ですね。
    つまりこれがここで言う所の「キャラ」が居るという事(なんですよね?)なのですが、実はマンガにおいて「絵」というのは脚本でいう所の「ト書き」の機能も担っているので、ここで同時に「その登場人物がその場で何らかの行動をしている、あるいは何らかの状況に置かれている」という意味も発生してしまう訳です。つまりこれが「キャラ」が「キャラクター」に上書きされ隠蔽されてしまう、という事です。
    同時に意味が発生するのに逆の事(「キャラ」が「キャラクター」を隠蔽する)が起こらないのは、「キャラクター」はマンガでは「キャラ」である(図像として存在する)事を前提としているけど、「キャラ」は「キャラクター」である(テクストに組み込まれている)事が必須ではないからです。
    そしてこの事は「キャラ」と「キャラクター」を分ける事が「マンガでは」出来ない理由でもあるのですが、ならば「キャラクター」ではない「キャラ」は存在し得ないのかというとそうでもなくて、要するに「ト書き」の機能を持たない場所に図像を描けばそれは純粋な「キャラ」になりえる訳です。だから例で上がってるハローキティなんかはカバンや弁当箱にプリントされているものはまさに純粋な「キャラ」と言えると思います。
    あと余談ですけどマンガにおけるキャラ性の強いキャラクター(ああ確かに紛らわしい(笑))って、手足が無いあるいは小さいものが多い気がするのですが、これって「手足が無い=行動できない」のを明示する事で物語上の存在感(あるいは関連度)を薄めてより図像としての意味を強調するという効果があるように思います。って前にどっかで見たような記憶がある話ですが関連していると思うので一応。
    また更に更に余談ですがギャルゲーとかによくある「立ち絵」というのもこの話で考えると結構面白い事になるのですが、さすがにもう嫌がらせ的な長さになってきたのでこの辺で止めておきます。長文乱文大変失礼致しました。

  75. ぼぼぶらじる より:

    >分数をリンゴで理解するような混乱
    わははは。
    まじめな方なんでしょうね。そういうまじめさは身につまされる反面、好ましい。
    たけくまさんの文章はずいぶん読みやすくなりました。
    ただ、きれいに分析してしまうと、
    伊藤のキャラクター、キャラ論は案外つまらないことを言っているなという気になります。
    厳しいい方をすれば、マンガ表現論自体が素人仕事を脱却してないのでしょう。
    たけくまさんご指摘のとおりキャラクターの短縮語としてのキャラを独立した意味で使用する用語法の混乱は欠陥として大きいでしょうね。
    ただ「純粋pure」と「絶対absolute」は概念的にabsoluteで他の要因に依存せず純粋に[無条件に]成立するというラテン語起源の用法がありますので、哲学用語上、純粋と絶対とは同じことになり、これも概念的に混乱するかと思われます。
    また、たけくまさんは物語(ストーリー)の定義を明確にすると同時に、
    何がストーリーマンガと言えないか明確に基準を示す必要があります。
    これは難しい作業でしょうね。
    伊藤の用語で使われているテキストというのは厳密には、記号表現としての文字表現のみを表します。
    記号sign、記号表現signifier、記号内容signifiedの三分類でいうと記号signとしての一連の文字の集合のみですね。
    マンガの場合は個人にしか使えないゲシュタルト記号(絵文字的記号)としての絵柄や台詞のテキストや集中線、漫符など象徴記号の複数のメディアが複合された表現手段ですのでテキスト批判や解釈論から来るテキストという表現は非常に不適切かと。
    これに対してたけくまさんのいわれるところの物語というのは表現される意味内容signifiedの方に所属するはずです。
    キャラを立てるという言い方をした池上は原作者ですから、池上のいうところのストーリーは原作に書かれたテキストと被るでしょうね。
    たけくまさんも心は原作者畑の人なのでストーリーとテクストの距離が近いのかな。
    しかし厳密には脚本とそれに立脚した漫画はまったく別の作品です。
    手塚の所謂スターシステムを考えると、父やアセチレンランプはキャラクターに当たりますが、こののキャラクターはそれ自身の世界観や性格付けをもっています。
    役者(スター)みたいなものですね。
    これに対してストーリー内で果たすべき役柄roleは独立したものです。
    話を聞いているとキャラクターとロールが「物語上のキャラクター」という用語の中で混同されている気がします。
    また視覚的情報である図表はキャラクター自身の一要素に過ぎないかと思います。
    加えて、キャラクター自身が背負っている世界観もこれはこれで「小さな物語」です。
    実際はキャラクター自身の持つ小さな物語や、設定、味付けと、全体の大きな物語が大河と支流のように調和しているものなのでしょう。
    登場人物の性格・個性(キャラクター)はしばしば物語の流れに決定的な影響を与えます。
    その意味でもキャラクターとストーリーは役柄ロールを通じて密接に関連する。
    また、キャラクター(役者)にあったストーリー内の役柄が与えられないと物語が成り立たなくなる。
    俗に言う作者の意図を離れてキャラがかってに動くという現象もおきる。
    小さな物語と大きな物語の引力バランスが悪いとストーリーから飛び出てしまう。
    まあだから、ストーリvsキャラの生真面目な対立二分論じゃカバーできないんじゃないかな。
    私にとってキャラクターは人格的個性を核とした独立した小さな物語の切れ端です。
    未分化のままで図像的に通用するときもあるし、キティちゃんやカールおじさんのように後からどんどん世界観設定が増えていき物語のようになるときもある。
    また、チョコボみたいに元の大きな物語から独立して一人歩きするときもある。

  76. クロサワとテヅカ

     竹熊健太郎氏のブログ「たけくまメモ」のコメント欄を読んでいたら、どっひゃー、黒

  77. 天川タミト より:

    初めまして。
    長谷邦夫さんのブログにも書いたんですが、戦時中でアメリア映画をシンガポールで観まくった映画監督は小津のみです。
    小津組が映画を撮影するためにシンガポールに行って観たんであって、そこに黒澤は参加してないと思います。
    黒澤は戦時中が国外に出てないと思いますし。まぁ、これは僕より詳しい方がいるかもしれないので言い切るのも恥ずかしいんですが。
    そのフィルムが国内に来たのなら分からないですが。
    でも小津はアメリカ軍が侵攻してきた後、捕虜収容所に居て、帰国が遅くなったりしてるので、小津が見たフィルムが国内に入ってきた可能性っては低いと思います。
    森卓也先生の著書は読んでいませんので、僕の思い込みである可能性もありますが。違うフィルムじゃないかと。

  78. 天川タミト より:

    小津が捕虜になったのは、アメリカではなくイギリス軍にだったようです。
    訂正します。

  79. Aa より:

    >そのフィルムが国内に来たのなら分からないですが
    来てたんだって

  80. 匿名 より:

    >来てたんだって
    イギリス軍に押収されないで?
    シンガポールの小津組関係者は全員捕虜になってるんですが。
    違うルートの可能性があると思いますが。

  81. Aa より:

    イギリス軍に押収される前にフィルムの何本かが日本に送られていたとすれば何も問題はないのではないかと。
    白雪姫のフィルムをみて日本のアニメ関係者が仰天という話は『日本アニメーション映画史』でも紹介されています。マニラかシンガポール経由だったかは今手元に本がないので分かりませんが、日本に持ち帰られたことは証言から確実だと思います。

  82. 天川タミト より:

    Aa さん
    突然書き込んだ者に丁寧にお答えくださりありがとうございます。
    日本軍が押収したものが日本に持ち帰られたって事には異論ありません。
    どうも、黒澤がシンガポールでって話しになってる部分だけ違うんではないかと思ったので書いた次第です。
    Aa さんはそうのようには書いてないようですね。失礼しました。

  83. Aa より:

    『映画史』のコピーをスクラップブックよりみつけました。ここにはシンガポールとあります。
    『白雪姫』と『ファンタジア』が日本に持ちこまれ、それを観た『桃太郎の海鷲』の瀬尾光世監督は大ショック。スタッフの増員をスタジオの社長に訴えるもききいれられなくて'43年の夏に退社。その後松竹に移り、'45年に公開したのが例の『桃太郎 海の神兵』だったと。

  84. トロ~ロ より:

    ↑ そうそう♪
    子供たちが疎開して誰も居ない大阪の映画館で、一人きりで「桃太郎 海の神兵」と併映の「くもとちゅうりっぷ」を見て大感激し、監督へファンレターを送った少年が、後に日本初のTVアニメ「鉄腕アトム」を作るのです。

  85. HAMADA13 より:

    話は飛びますが、諸星大二郎の6年ぶりの新作が出ました。手塚賞受賞の超寡作なこの漫画家の新作について、竹熊先生なにかコメントいただけませんか?

  86. たけくま より:

    ↑まだ読んでません。今度読みます。

  87. トロ~ロ より:

    ↑「諸怪志異 (4) 燕見鬼 アクションコミックス」ですな!
    早速、明日は本屋へGO!
    たけくまさんは美少女オタドルへGO!

  88. 倉井あどき より:

    前回書き込んでからもここ以外の書評を読んだり竹熊さんの記事も一回目から読み直したりしながら色々考えていて一つ気付いた事があるのでもう一度書き込みます。
    私は前回「キャラ」と「キャラクター」の「分別」というのはどういうものなのかと言うのを無駄に長々と語っていた訳ですが、そもそも二つを分離する事にはさして意味が無いのだという事に今更ながら気付きました。本を読んでいないからと前後の文脈をあえて無視した上で論を組み立てようとしたのがそもそもの間違いだったと今は反省しています。
    大事なのは二つを「分ける」事ではなくてマンガのキャラクターにはそういう二つの側面が「在る」(と見なせる)事なのでしょう。そしてその二つの内「どちらがより重視されるのか」という部分に昔と今で何らかの変化が起きていて、それが即ち「マンガ史の重要な切断線」や「『ストーリー主義者』による『キャラクター主義』への嫌悪感」といった話に繋がっていくのかなと思います。ってこれってまんま夏目先生のコメントに書いてある事なんですよね。ちゃんと読まずに今頃になって気付いた私は大馬鹿者です。ええ。
    それと、少し話が逸れますが「物語」というのは「感情移入の対象としての『キャラクター』」と「何らかの行いをする(あるいは状況に置かれる)主体としての『キャラクター』」が重なった所に生まれるものだというのが私の持論なのですが、今回の話はこれに通ずるあるいは重なっている話題なのかな、なんて事も考えてしまいました。
    あとまた更に話が飛びますが、この「キャラ」と「キャラクター」の話って視点を変えると作品=「全体」とキャラクター=「部分(あるいは細部)」の関係性の問題としても捉えられると思うんです。
    かつてのマンガを含む物語メディアの作品構造というのは「全体」を貫く「『ストーリー』という名の王様」が居てその王様の都合で作品の一「部分」に過ぎないキャラクターはその言動どころか生死まで左右されるという云わば専制政治が当たり前だった(夏目先生のコメントを読むと少なくともマンガにおいては後付けの常識だったらしいですけど)ように思うのですが、王様が没落したのか市民革命が起こったのか理由はともかく何時の頃からか(全体像としての)「作品」の権威は個々のキャラクターの魅力と同列に語られる程度にまで失墜してしまいました。今やキャラクターは作品(=物語)の為に死ぬのではありません。自らをより魅力的に見せる為に悲劇を選ぶのです。
    で、そんなこんなで頼りない王様の代わりにキャラクターや世界設定等の「細部」が矢面に立たされる事になって読者への媚びが過剰ないわゆる萌え系作品とかストーリーそっちのけで設定の充実を図る末端肥大型作品が氾濫しそれが当たり前になった人とそうでない人の間に溝が生まれる訳ですね。
    前回以上に脈絡の無い文章になってしまった気がしますが自分の勘違いを訂正せずに放置しておくのもどうかと思ったので。再び長文乱文失礼致しました。

  89. 『テヅカ・イズ・デッド』 is dead

    本当はたけくま氏の記事の完結を待ち『テヅカ・イズ・デッド』を読んでから書いた方が

  90. 『テヅカ・イズ・デッド』 is dead

    本当はたけくま氏の記事の完結を待ち『テヅカ・イズ・デッド』を読んでから書いた方が

  91. マロー より:

    ↑ああ、なるほど、私も勘違いしていました。倉井さんのコメント助かります。夏目先生のコメント一生懸命理解しようとしてましたが、私のツルツルの脳みそを滑ってゆくばかりで理解できませんでした(汗)
    そうか、「キャラ」と「キャラクター」は内包されるものだったのですね。私も二つに分けて考えていました。どうりで<隠蔽>の意味が解らなかったワケだ・・・とにかく感謝です。

  92. シバイタロカ博士 より:

    今更ながらのコメントで恐縮です。
    たいへん興味深く読ませていただきました。
    『テヅカ イズ デッド』自体は未読なのですが、
    さっそく読んでみます。
    "キャラ"と"キャラクター"という操作概念は便利そうですね。
    西原理恵子の諸作品("キャラ"然とした絵で物語もないが、登場人物に人生は感じる。)
    や、
    『スラムダンク』("キャラクター"が走った結果、物語が途絶えてしまった。)
    のような、二分できないケースについての考察が出ることを期待します。

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