たけくまメモMANIAX

2008年7月17日

いつからマンガ家の住所は秘密になったのか?

Syounenmagazin720312 ←「少年マガジン」1972年3月12日号表紙

ええと、このエントリを読んでいる皆さんは、マンガ家の連絡先がどの出版社でもトップシークレットになっていることはご存じですよね。特に近年はプライバシーの保護に社会全体が厳しいですから、作家の連絡先が秘密になることは当然ではないかとお考えの人は多いと思います。でも、かつてはどのマンガ雑誌にも堂々と作家の連絡先が掲載されていたといったら、若い人は驚くでしょうか。

Syonenmagazin197203122_3 ←同じ号の65P「あしたのジョー」の欄外には、堂々とちば先生の住所が!

左の図版をご覧ください。たまたま俺の部屋にあった「少年マガジン」1972年の12号(3月12日号)を見ると、誌面に堂々とちばてつや先生の連絡先が載っています。ちば先生だけではありません。梶原一騎先生も、赤塚不二夫先生も、作家の連絡先は全部誌面に載っているのです。

72年といえば俺は小学校6年生でしたが、少なくともこの頃までは、作家の住所が番地まで雑誌に載っていることが普通でした。ちなみに掲載図版では一部を伏せていますが、オリジナルにはバッチリ全部載っています。

マンガ好きのよい子の皆さんは、ファンレターを編集部に送るなんてまどろっこしいことはせず、直接マンガ家先生の住所に送ることが当然でした。というか、編集部がそれを奨励していたわけです。東京に住んでいるよい子は、日曜日に色紙を持ってマンガ家先生の自宅に押しかけてサインをもらうこともよくありました。それでも大きなトラブルはなかったのです。

で、今回の疑問は、いつから作家の連絡先は部外秘になったのか?」ということだったりするわけです。これはもう、72年以降のマンガ雑誌をしらみ潰しに当たっていけば判明するのですけれど、今はその余裕がありません。

ただ俺の推理を書くなら、おそらく73年から74年にかけてのどこかではないかと思うわけです。これは作家のプライバシーに気を配るようになったから、というわけではありません。もっとビジネスライクな理由だと思います。その論拠を以下に示します。

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2008年6月25日

マンガ界崩壊を止めるためには(6)

●限界に来たマンガのビジネスモデル

以上、述べて来ましたように、マンガ界はこれまでのビジネスモデルが限界に達しつつあり、早くなんらかの手を打たないと、大手出版社を始めとして版元も作家も共倒れになる危険性があります。

もちろんこれはマンガ界単独の問題では実はなくて、「版元―取次―書店」といった出版流通の構造が限界に達しているということで、全出版流通の三割を占めるマンガ(雑誌・単行本)が売れなくなってきているということが、事態をより深刻にしているわけです。

ブックオフやマンガ喫茶の隆盛を見る限りでは、マンガ読者が減っているのではなく、マンガを(新刊で)買う人が減っているだけだということがわかります。ここから考えても、マンガ表現そのものは、これからも生き残るだろうと思います。

実際、出版流通の中心から目を転じてみるならば、コミケなど同人誌即売会の隆盛は年々大きな存在感をしめしており、インターネットではマンガネタが大きなウェイトを占め、ケータイマンガなどのニューカマーが倍々ゲームで業績を伸ばしている実態があります。

しかし、版元―取次―書店流通による紙マンガ出版が現状、圧倒的主流であることは確かなことで、たぶんこれからも当分は主流であり続けることでしょう。

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2008年5月31日

内田勝氏、ご逝去

※追記:後半に記事訂正部分があります。

今朝、マイミクであるスタジオ・ハードデラックス高橋さんのミクシイ日記で、30日に内田勝さんが亡くなられていたことを知りました。73歳でした。

奇しくも先日このブログで長谷邦夫先生の『マンガ編集者狂笑録』を記事にしたばかりですが、この本でも一章を費やして内田さんのことが書かれていました。

内田勝さんは、1959年に講談社に入社、65年に「少年マガジン」3代目編集長に抜擢され、奇才エディターの大伴昌司と「ウルトラ怪獣大図解」をグラビア特集して一大怪獣ブームを巻き起こし、マンガ班チーフの宮原照夫氏とともに「巨人の星」「あしたのジョー」「天才バカボン」などマンガ史に残る名作を次々に連載、1970年にマガジンを少年誌初の150万部突破に導きました。

まだ詳しい情報が入ってないので死因等はさだかではありませんが、情報源が確かですので間違いないと思います。自分は、かつて内田さんにロング・インタビューを試みたことがありますが、その明晰な話しかたに度肝を抜かれました。頭の中でしゃべる内容が完璧に整理されていて、テープ起こししただけでほぼそのまま記事にできた人は、自分が経験した中では内田勝さんだけでした。

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2008年5月18日

『マンガ編集者狂笑録』読了

Mangahensyuusyakessyouroku←マンガ編集者狂笑録 (水声文庫)

長谷邦夫先生の『マンガ編集者狂笑録』、ようやく読了しました。大変面白い本です。『少年倶楽部』『漫画少年』の名編集者・加藤謙一氏から、浦沢直樹氏との名コンビで知られる長崎尚志氏まで、実在のマンガ編集者を主人公にした「小説集」なんですけど、編集者の視点からマンガ界について描かれた小説というのは珍しく、さすがは長谷先生というべきかもしれません。

「少年マガジン」の3代目編集長・内田勝氏と4代目編集長・宮原照夫氏には俺も会ったことがあるんですが、このお二人は盟友であったと同時に最大のライバル関係でもあり、そのお互いの内面にまで踏み込んだ描写には、「漫棚通信」さんも書かれていましたが「よく書いたな」と俺も思いました。

http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_2297.html
↑漫棚通信ブログ版・マンガ編集者列伝より

ここで漫棚通信さんも触れてますが、もともと「編集者と作家は共犯関係」だと書いたのは俺です。

http://memo.takekuma.jp/blog/2005/03/post_2.html
↑「たけくまメモ・共犯者としての編集者」

http://memo.takekuma.jp/blog/2006/03/post_6ff0.html
↑「たけくまメモ・長崎尚志さんに会ってきた」

俺が長崎さんにインタビューしたときに「共犯関係ってのは言い得て妙だね」と褒められたんですが、このときのインタビューは長崎さんの章に材料として使われていて、本書のオビにも「共犯者」という言葉が使われております。

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2008年2月20日

●「ぼくら語り」の夜明け・後編

Dscn0221←「まんがコミュニケーション」1971年6月創刊2号

「まんコミ」71年6月号に掲載された、斉藤次郎編集長の手によると思われる「コミュニケーション405」には、こういう文章もあります。

まんがをまんがで語る
“まんがブームの終り”の寸劇が街で評判をとっている。一時の頂点、「少年マガジン」誌百五十万部突破は、すでによきムカシバナシとして出版界の酒宴の酒の肴になりきろうとしている。(中略)
おびただしい数の読者がまんが雑誌から、無言に別離した。その別離の距離が狂おしいまんが雑誌のたそがれに向かって告知している。その距離のなかに、表現欲求の延長上にまんがを表現メディアとする層が定着した、まんがを表現の武器として、しかも、まんがの内側から、まんがでまんがを語り、絵ときするものと「まんコミ」は、グルになり、その鼓動を伝え合う。そのとき“まんがブームの終り”がある》

これも晦渋な文章ですね。少し説明すると、文中の「少年マガジン」が売れなくなったというのは、1970年に150万部を記録した「マガジン」が翌71年になって、とつぜん部数が大幅に落ち込んだことを指しています。同時に「サンデー」の部数も激減しました。原因としては、「マガジン」「サンデー」は創刊時(59年)に小学校高学年だった団塊世代をターゲットにしていたため、70年には主要読者が大学生から社会人になり、人気連載だった『巨人の星』の終了と、『あしたのジョー』でライバル力石が死んで連載のテンションが一時的に失速、『天才バカボン』がいきなり「サンデー」に移籍する事件もあって、読者離れを起こしてしまったことにありました。

少年読者は新興勢力の「少年チャンピオン」「少年ジャンプ」に流れ、ハイティーン層は「マガジン」「サンデー」に見切りをつけて、「漫画アクション」「ヤングコミック」「ビッグコミック」などの新興青年誌に流れたということがあります。マガジン・サンデー両誌ともあわてて読者年齢を下げようと試みましたが、読者は戻らず、以降80年代にラブコメ路線で盛り返すまで両誌の長期低迷が続くのです。しかしこれはマンガが多様化しはじめただけで、必ずしも総体としての読者数は減ってはいなかったと思うのですが、「まんコミ」編集部はそうは見ていなかったということでしょう。

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